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キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

秀吉はなぜ"女、子供を串刺し"にしたのか?大虐殺の背景に透ける信長のご機嫌損ねた"焦り"

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佐用町 上月城址より上月城下の展望
佐用町 上月城址より上月城下の展望(写真:alpha7000 / PIXTA)

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天下人・豊臣秀吉と弟である豊臣秀長にまつわる物語を史実に沿って紹介する連載「戦国最強の兄弟の軌跡」。今回は、播磨侵攻を進める秀吉の暴挙を紹介します。

天正5年(1577)10月、織田信長の重臣・羽柴秀吉が播磨国に出陣しました。これは播磨一国の支配を目論んだものですが、西国の雄・毛利氏方の勢力が播磨に広がっていくことを食い止める意味合いもありました。

播磨の国人たちは、織田方に付くのか、毛利方に加勢するのか、選択を迫られることになります。

播磨御着の城主・小寺政職は早くから信長に従い、天正3年(1575)には重臣・小寺孝高(黒田官兵衛)を信長のもとに遣わしていました。秀吉は孝高と交流を深め「今後、近いうちに何事も隔てなく、諸事、相談したい」(天正5年6月23日)、「その方は、私の弟・小一郎(秀長)と同様に心安く思っている」(同年7月23日)ということを書状で述べています。

秀吉の播磨侵攻「主な国人から人質を取った」

前述のように、織田方に心を寄せる播磨の国人もいたこともあり、秀吉の播磨侵攻は順調に進むかに見えました。

播磨に入った秀吉は、播磨の主な国人から人質を取ります。その事もあって、秀吉自身も11月中には播磨の仕置が完了すると楽観視していました。

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