東洋経済オンラインとは
キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

秀吉はなぜ"女、子供を串刺し"にしたのか?大虐殺の背景に透ける信長のご機嫌損ねた"焦り"

5分で読める
佐用町 上月城址より上月城下の展望
佐用町 上月城址より上月城下の展望(写真:alpha7000 / PIXTA)
2/3 PAGES
3/3 PAGES

さて、『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記)にも、秀吉の播磨攻めの様が記載されていますが、それによると、11月27日、秀吉軍は熊見川を越え、敵方の上月城(兵庫県佐用郡)に向けて進軍。近辺に放火しています。

あわせて、福岡野城を黒田官兵衛と竹中半兵衛に攻めさせています。

対して、福岡野城を救援するため、宇喜多直家が出兵してきます。秀吉軍は、この宇喜多勢に攻めかかり、足軽を追い崩し、数十人を討ち取ったのでした。

その後、引き返し、上月城を包囲、攻撃を加えたのです。籠城戦7日目になり、城中の者から次のような嘆願がありました。

「大将の首を獲るので、残党の命を助けて欲しい」と。

上月城主の首は、安土の信長のもとに送られますが、上月城の残党は助命されることはありませんでした。残党は悉く引き出され、備前・美作国境で磔にされたのです。

女子供200人あまりを串刺し・磔にして虐殺

『信長公記』には上月城の城兵らが処刑されたことだけが書かれていますが、現実はより凄惨でした。秀吉は、城兵のみならず、女・子供200人あまりを播磨・備前・美作国境に連行し、子供を串刺し、女性を磔にして虐殺したのです(下村文書)。

これは、毛利方への見せしめだったとされます。信長に逆らえば、こうなるぞと言うことです。『信長公記』によると、秀吉は北国からの無断帰陣という罪を償うべく、昼夜を問わず駆け回っていたとあります。

信長から激怒されるも何とか許された。しかし、信長の信頼を本当の意味で取り戻すには、目覚ましい軍功を立てなければならない。秀吉は焦っていた可能性があります。その焦りが、前述の残虐行為に繋がった可能性もあるでしょう。

落城した上月城には、山中鹿之介(幸盛)が入れ置かれました。ちなみに鹿之介は、尼子氏に仕えて毛利氏と戦い、主家の降伏後も主家再興に尽力した武将です。

(主要参考文献一覧)
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社、2013年)
・桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(新人物文庫、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)

こちらの記事もおすすめ

あなたにおすすめ

キャリア・教育

人気記事 HOT

※過去1週間以内の記事が対象