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キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

「天空の城」「東洋のマチュピチュ」とも呼ばれる…雲海に浮かぶ竹田城を秀長はどのように落城したのか?

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雲海に浮かぶ竹田城
雲海に浮かぶ竹田城(写真:オフィスK / PIXTA)

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天下人・豊臣秀吉と弟である豊臣秀長にまつわる物語を史実に沿って紹介する連載「戦国最強の兄弟の軌跡」。今回は、「天空の城」として人気の竹田城を落とした豊臣兄弟の奮闘を紹介します。

天正5年(1577)10月、羽柴秀吉は播磨国へ出陣し、その平定に昼夜を問わず尽力します。そして主君・織田信長からも「神妙」(奇特)であると称賛されますが、秀吉は「さしたる働きではござらぬ」として、すぐに但馬国にも攻め込みます(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記『信長公記』)。

秀吉が「さしたる働きではない」と思ったのは、かつて加賀の陣中から勝手に撤退し、信長の怒りに触れたことが関連しているでしょう。播磨攻めの功を誇るのではなく、ここは自重した方が信長の覚えもめでたくなると秀吉は判断したと思われます。

但馬攻めを任された秀長

さて、但馬攻めを任されたのは『武功夜話』(織田信長や豊臣秀吉に仕えた前野一族の古記録。偽書説もあり)によると、秀吉の弟「小一郎」(秀長)でした。但馬攻めの軍勢は、同書によれば3200余人。小一郎を大将とする軍勢は、但馬国朝来郡、養父郡へ「乱入」します。前野将右衛門も「付将」として遣わされました。

また小一郎の幕下には「猛将」とされた宮部継潤・青木一矩・藤堂高虎・堀尾茂助らがいました。

この但馬攻めには「播州赤穂郡白旗の城主」赤松佐兵衛佐(斎村政広)も「合力」しています。赤松軍は700余の人数でした。

政広は秀吉の御前にまかり出て「今度の但馬攻め、是非とも先陣を仕りたい」と申し出たのです。その言葉を「殊勝」(感心)に感じた秀吉は政広の願いを許容したのでした。

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