天正5年(1577)8月、織田信長は重臣・柴田勝家を総大将とした軍勢を加賀国に出兵させます。滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・斎藤利治・安藤守就・前田利家・佐々成政といったそうそうたる織田家臣もそれに従います。
それに加えて「若狭衆」も加賀に「乱入」しました(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記『信長公記』)。
この織田軍の北陸出陣は、越後の上杉謙信が能登に侵攻したことへの対抗策と言われています。織田軍は添川・手取川を越え、小松村・本折村・安宅(小松市)などを焼き討ちし、そこに陣を構えました。順調に事が運ぶかに見えましたが、織田軍に内部亀裂が発生します。
『信長公記』には、羽柴秀吉が信長に届けも出さずに(無断で)、陣払いしてしまったとあります。
同書には、なぜ秀吉が急に陣払いをしたのかは記載されていません。ただ、信長が秀吉の勝手な行動を「曲事」(けしからぬ)として怒ったとあります。
松永久秀の謀反→軍勢を撤退させるが上策
『武功夜話』(織田信長や豊臣秀吉に仕えた前野一族の古記録。偽書説もあり)には、この辺りの経緯が具体的に記述されています。それによると、北陸に出陣していた秀吉でしたが、松永久秀の「謀反」の情報が入ったことにより、評定を開きます。
その評定には、秀吉の弟・小一郎(秀長)や竹中半兵衛・蜂須賀小六などが参加していました。評定の結果は、越後の上杉と一戦を交えず、一旦、軍勢を撤退させるが上策というものでした。
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【柴田勝家に撤退策を伝達】
