斎村政広は但馬の城や地理に詳しい者でしたので、小一郎の軍勢の「道案内」をします。政広に先陣を申し付けたのも、殊勝な発言をしたからというよりも、そうした役割を期待したからと思われます。
10月上旬、但馬に向けて発向した小一郎軍は、岩谷の険阻を越えて、山口・朝来・岩州の城を攻囲します。
山口や岩州の城は「大田垣出雲守」、竹田城(朝来郡)は「大田垣土佐守」(山名祐豊の家臣)が固めていました。
岩州の城→竹田城を落城
小一郎軍はまず、岩州の城に攻め込みますが、大田垣出雲守は城を出て、退いていきます。小一郎の軍勢は、続いて竹田城に攻めかかります。
ちなみに竹田城は、現代において「天空の城」「東洋のマチュピチュ」と呼ばれ、多くの城ファンの人気を集めています。雲海に浮かぶその姿は、幻想的で圧巻です。
竹田城は「高所」にありましたが、小一郎の軍勢は、手を休めず敵に攻撃を加え、これを切り崩していくのです。また、小一郎軍は諸所に「火を放ち」、城に攻め寄せます。すると敵方は「岩石」を投げ落とし、対抗してきます。
が、小一郎軍はこれを物ともせず、山谷を越え、諸手より鉄砲による攻撃を加えるのです(鉄砲300挺にて射撃したとのこと)。
昼夜を問わず、攻撃を加える小一郎の軍勢。さすがにこれは敵わぬと思ったのか、城主・大田垣土佐守は「降参」し、城を明け渡します。
小一郎軍は休むことなく、更に養父郡内に「乱入」し、諸城を攻撃。諸城は「防戦」しますが、敵わず、将兵は「敗走」することになります。
但馬二郡に討ち入ってから、わずか20日ほどで、小一郎軍は但馬二郡を「平均」(平定)したのでした。
