小一郎と前野将右衛門は、竹田城に入城。小一郎は朝来・養父二郡の「目代」となりました。以上は『武功夜話』を基にした小一郎軍による但馬攻めですが『信長公記』にも簡潔ながらも、但馬攻めに関する記述があります。
但馬国に発向した秀吉方の軍勢は、まず、山口・岩洲の城を攻め落とし、その後「小田垣」が籠る竹田城に攻めかかったとあります。
秀吉方の軍勢の攻撃により、竹田城の将兵は「退散」。城は秀吉方のものとなったので「普請」(修理)が命じられました。そして「木下小一郎」(秀長)が「城代」として、竹田城に入ったというのが『信長公記』の但馬攻めの記載です。
秀吉軍の猛攻により、竹田城を始めとする但馬の諸城は、落城していったのでした。
「百姓はありがたく思い…」秀長が但馬で行った善政
竹田城に入った小一郎は、それ以上の「力責め」は慎み、但馬国衆の所領は「安堵」しました(『武功夜話』)。よって、郷中からやって来て、その旗下に参じた者が「参(三)千有余」人もいたといいます。
同書はこれを小一郎の「陰徳のしからしむところ」(密かに施す恩徳のお陰)であると評します。小一郎は「奉行代官」を定め、乱暴狼藉を禁じ、過分の課役をかけることをしませんでした。百姓らはそれをありがたく思い、その長たちは御礼を言上するため竹田にまでやって来たといいます。小一郎秀長は但馬において善政を行ったのでした。
(主要参考文献一覧)
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(新人物文庫、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)
