次女のゆうなさんも、鹿児島での思い出を語ってくれた。
「あんなに家族が一緒にいたことは初めてだったんじゃないですか。だから、最初は何だかすごい、ぎこちないところもあって。急にやさしくし合うのもね。何かを待ってるみたいでしょ。でも最後の最後に良さが出てきて。私たち家族も、父の闘病がなかったならば、結束は固いんだけれど、普段は自由人だから。父のおかげでひとつになった。初めて全員がメンバーになった」
僕は当時、ニューヨークで方向の見えない生活を送っていた。僕が鹿児島の病院にニューヨークから夏休みをとって見舞いに伺ったのは8月21日のことだった。日記にはその日のことが記されているがここでは紹介できない。
房子さんは疲労困憊して動けなくなったこともあった。房子さんが当時の思いを語ってくれた。
「日に日に体が弱っていく。ある日、パパが鏡で自分の顔をみて、不安でしようがなくなっているのがわかったのね。私、ふと、鹿児島の病院の屋上に上がったのね。そしたら夕焼けがとっても綺麗で、ああ、このまま誰も知らない鹿児島でパパが死んでいいのかなと思って、病室に降りて行って『パパ、東京に帰りたい?』って聞いたら『うん』と言ったの」
筑紫さんは体力の許すギリギリの段階で(2008年10月28日)、東京に空路で戻って、羽田空港から聖路加病院にそのまま入院した。11日目、筑紫さんは永眠した。聖路加病院で意識が混濁する中、意識が一時的に戻って「ノートを早く持ってきて!」と言って筑紫さんが最後に書き記した文が残っている。英語で「Thanks You 」。
「それまでありがとうとか何も言わなかった父の最後のことばがこれだったんですね」(ゆうなさん)
「死ぬ前の最後のことばがありがとうと言えるような人生はすばらしいなと思いました」(拓也さん)
最後の出演
筑紫さんが番組を降板すると別れを告げた最後の『23』出演、死の8カ月前の2008年3月28日の放送。その日の番組をあらためて視聴した。背筋の伸びる思いをした。ほとんど体力の限界に達していた筑紫さんが最後のかすれた声を振り絞っていた。
この日の進行表が残っていた。『筑紫23』ではなくなった現『23』に今も(2015年5月時点)在籍し続けている棟ちゃん(吉田〈棟方〉美穂さん。業務デスク)が、その進行表をみつけてきて小さな叫び声をあげた。進行表の「編集長」の欄に「筑紫哲也」と書かれていたからだ。
この欄はその日の担当デスクの名前が記されるのが通例となっていた。18年半に及ぶ『筑紫23』の進行表で、編集長欄に筑紫さんの名前が記されているのは、この最後の出演の回だけである。当当日の黒岩亜純・担当デスクが万感の思いを込めて、そのように筑紫さんの名前を書き込んだのだ。
「18年半の末に最後の日になって、ああ、この番組の編集長は、やっぱりずうっと筑紫さんだったんだ」。放送時間が近づくにつれてそのような強烈な思いが高まり、0版段階では書いていた自分の名前を消した。放送が終わってからだが、「筑紫編集長」名の進行表を筑紫さんに見せると、筑紫さんは何も言わずに複雑な笑みを浮かべていたという。
