とくに武藤山治が鐘紡の社長となると、中小の紡績会社を吸収し、従業員の福祉を徹底して、金銭的にも手厚く報いた。これによって明治29(1896)年には資産総額で鉱工業部門の1位の企業となり、その株は「国宝級」とまで称えられるようになった。
そして、そんな彼の経営手法が、戦後の復興を支えた「温情主義的な日本式経営」の一つのひな型ともなった。その威力は、戦後日本の大企業が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで称えられた躍進ぶりを見れば、一目瞭然だろう。
この背景には朝吹の強い影響が見て取れるのだ。
「王」を育てた人材育成の神様
続いて朝吹は、三井に払い下げられた富岡製糸場の立て直しにもかかわるが、そのとき彼の薫陶を受けたのが、藤原銀次郎だった。
新場長となった藤原銀次郎が驚いたのは、1500人近くいた女工たちの給料が、出来高ではなく、家柄と容姿で決められているという事実。工場では「腕みがくより、顔みがけ」という歌まで流行っていた。
これで生産性があがるはずもなかった。
そこで、給与を出来高制にあらためたところ、女工や職工がストライキをおこしたりもしたが、やがてそれもおさまり、業績は順調に回復していった。
藤原は、生糸の販売についても、改善を朝吹に提案したことがある。ところが、聞いてくれない。藤原はむくれてしまうが、そのときのことを次のように回顧している。
「(朝吹さんは)『君の提案は真っ当なものだが、各方面に複雑な関係があって、その実行は大局から見て困難である』と事情を丁寧に説明された。その時のことは今でもありありと思い出されるが、まるで優しい父から諭されるような気持で、私の考えがあまりに単純で、またあまりに世の中を知らな過ぎたことを恥じ入り、あっという間に自分の非を悟ったのである」
世の中は機械ではないので、正しいことを、ボタンを押すように主張しても、うまく動いてはくれない。
この意味で、朝吹は人の心理を知り尽くしていて、育成や折衝、交渉、説得が抜群にうまく、動かしにくい組織をうまく動かす名人だったのだ。
藤原は朝吹から学んだことを活かして、王子製紙も見事に立て直し、「製紙王」とのちに呼ばれている。
三井は「組織の三菱」に対して、「人の三井」と呼ばれる。それだけ人材が多士済々ということだが、とくに「ものづくり」系で大成した人材たちは、みな朝吹の薫陶を受けていた点で共通している。
そして、こうした彼の能力が、三井という組織全体を救うことにもなった。
