彼の度量は、本当に底が抜けていた。
そして、そんな彼を、もっと表舞台に引っ張り出したいと狙っている友人たちが少なからずいた。
岩崎弥太郎のもとで三菱の大幹部として活躍した川田小一郎は、三菱時代に、同僚だった朝吹英二の桁外れの器の大きさと、有能さを目の当たりにしていた。
日銀総裁になっていた川田小一郎は、自分の給料を丸ごと朝吹に渡してしまうなど、陰ながら彼を応援していたが、ある日、三井が鐘淵紡績(のちのカネボウ)の立て直しに難渋していることを聞きつける。
そこで、朝吹英二に鐘紡の立て直しをさせてはどうか、と三井に提案。それを聞いた三井の幹部だった中上川彦次郎が、同僚の益田孝に相談すると、
「それは至極結構なことです。朝吹くんとは一緒に仕事をしてみたいと昔から思っていたので、さっそく来てもらいましょう」
と話がまとまり、明治25(1892)年、鐘紡の専務取締役(実質的な責任者)として入社した。
この後、三井は、銀行、貿易、鉱山、工業の4つを柱とする体制をつくるが、そのうちの工業部の責任者に朝吹英二が就任。三菱と三井というライバル財閥で、ともに幹部となった稀有な存在となった。
三菱から三井へ、現場主義で挑む再建
朝吹は徹底した現場主義だった。
それまでの重役がほとんど工場に出向かなかったのに対し、彼は工場に張り付いて、業務や従業員福祉の向上にいそしんだ。食堂の弁当にあった沢庵が美味しくないと、彼は料理長に沢庵の漬け方まで指導している。
彼は、骨の髄からの叩き上げで、家の雑用仕事をこなすことからキャリアを始めている。だからこそ現場、そして従業員を大切にすることが、最終的には会社を発展させるという理路を、肌身を通じて理解していた。
彼の現場主義によって、鐘紡の業績は回復、兵庫に新工場を出すまでになる。
そして、このとき彼の部下として薫陶を受けたのが、後に「紡績王」と呼ばれた武藤山治(のちに鐘紡社長)と、後にやはり「紡績王」「財界世話人」と呼ばれた和田豊治(のちに富士紡績社長)に他ならない。
