私はその規則は百も承知だが、目の前でニューヨーク市の地下鉄のドアが閉じはじめたときに、何度か手か足を突っ込んだことがある。すると、ドアはまたサッと開き、私は列車に飛び乗る。だが、誰一人気にしない。わざわざ顔を上げて見る人さえいなかった。
ところが、一度日本でそうしたら、私が飛び乗った車両の乗客が全員愕然(がくぜん)とした顔をこちらに向けたばかりか、列車全体のドアが停止してしまった。
私の乗った列車のソフトウェアは、閉じかけたドアがこじ開けられたときには、列車全体のドアを停止させるように設定されていたのだ。
列車のドアが閉じかけているときには次の列車を待つという規則を破った私は、駅員が広大な駅を走り回り、列車全体のドアを1つひとつ再起動し、ようやく発車できるまで、通勤客たちの冷ややかな視線を浴びながら、人生で最長の15分間を過ごす羽目になった。
列車が走りはじめた頃には、これから乗ろうとする人の列は駅の外まで伸びており、私は消え入りたい気分だった。厳しい文化のシステムは、気軽に規則を破る人間を見逃すようにはできていないという事実は、この経験によって私の脳にしっかりと刻みつけられた。
脅威と文化の厳しさの関係
これに限らず集団主義には広範に当てはまるのだが、文化の厳しさは必要性の産物だ。
自然災害や戦争、飢饉、その他の脅威にさらされてきた長い歴史があり、しかも昔から人口密度の高い文化は、人がまばらにしか住んでおらず、そのような脅威とはあまり縁のない文化よりも厳しい傾向にある。
生活が危険に満ちていたり、人がぎゅうぎゅう詰めになっていたりしたら、文化はそこでの暮らしに伴う課題を処理するために、非常に厳しくなる。生活が安全で人がまばらなら、文化ははるかに緩やかになる余裕がある。
西ヨーロッパにもたしかに混雑した都市や危険な場所はあるが、平均すると、アジアやアフリカよりも、人口密度が低く、自然災害の影響も少ない。
文化の厳しさの度合いは、原則として個人主義/集団主義とは別個だが、厳しい文化は緩やかな文化よりも集団主義的な傾向にある。それは、厳しい文化の要求に応じるには、人がより従順で、規範を守ることを求められるという、明白な理由による。
(翻訳:柴田裕之)

