【追悼】外食王・小川賢太郎が挑んだ資本主義「革命」の光と影、学生運動→労働運動→企業経営と転じた波瀾の人生
予想はしていたが、幻滅する。「組合幹部上がりの議員は、日本のことも民衆のことも考えない。議員の地位に恋々としているだけ」。
決定的な転換点は、75年だった。この年、南ベトナムの傀儡(かいらい)政権が倒れ、ベトナム戦争が終わる。「ベトナム反戦」を叫んできた小川にすれば、勝利の瞬間だ。そのとき、思った。「マルクス・レーニン主義は終わったな」。「戦争を内乱へ」がレーニンの方程式だ。言い換えれば、戦争という条件の下においてのみ、権力奪取が可能になる。ところが、戦争は終わってしまったのだ。
資本主義の下で「飢餓と貧困を撲滅する」道を探る
「ボールを蹴っていれば、この試合、勝てるかどうかわかるでしょ。ユーゴの自主管理や中国の人民公社。社会主義のいろんな制度を勉強したが、勉強すればするほど、資本主義的生産様式はすげえな、と」。
決めた。資本主義の下で「世界の飢餓と貧困を撲滅する」道を探ろう。みんなが食えて、ハッピーに暮らすことができれば、社会主義も資本主義もへったくれもないだろう。
中小企業診断士という、おあつらえ向きの資格がある。その通信講座で簿記、財務諸表、マーケティングなど経営の基礎知識をひととおり習得し、78年に診断士登録。次は就職である。「食」にかかわりのあるコンビニか外食か。目に留まったのが、急成長中の吉野家だった。
人事部長が東大中退の履歴書を見て聞いた。「初任給15万円だが、どうする」。「普通に扱ってください」。
バイトに混じって店に立ち、31歳で経理部次長に。ところが、外見は華々しい吉野家の台所は火の車になっていた。株主構成も複雑だった。
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