【追悼】外食王・小川賢太郎が挑んだ資本主義「革命」の光と影、学生運動→労働運動→企業経営と転じた波瀾の人生
壮大すぎて、にわかに肯ずけない。
が、小川が創業以来、この理念を掲げ、どの外食企業より高速成長を実現してきたことは事実である。一昨年、牛丼店の店舗数で吉野家を上回り、今年、日本マクドナルドの売り上げを抜き去って「外食日本一」の王座に着く。「達成感? 全然。日本マックを抜くためにやってきたわけじゃないんだから」。
東大中退し荷役会社へ 吉野家での“敗北”
フツーじゃない、と思われるのはむしろ本望である。「僕の基本的な考えは、ユニークであること。小川賢太郎は68億人の中に一人しかいないから、価値がある。原田(泳幸・日本マクドナルドホールディングスCEO)さんがどうのこうのは、青森の小学校に算数のできる子がいるぞ、と言われるのと同じ。関係ないだろう、そんなの」。
1968年、小川は東京大学に入学した。「いい時期に入った」。米国が連日、ベトナムを空爆し、街も村も焼き尽くしていた。毛沢東が文化大革命を発動し、カルチエラタンで学生と機動隊が激突した。世界中で矛盾が噴き出していた。
そして東大。“白い巨塔”=医学部の医局制度改革を発火点とし、全学部が無期限ストライキに突入した。全共闘運動のただ中に小川はいた。「半端な改革じゃ済まない。国の仕組みを根本的にたたき直す。革命をやらなければいけない」。
だが、安田講堂の“落城”を境にストは次々に解除され、学生たちは教室に戻っていく。小川は違った。
当時信奉していたマルクス・レーニン主義によれば、革命の正規軍はプロレタリアート(労働者)だ。魚を釣るには魚のいるところへ。それも、最も労働条件の厳しいところがいい。東大を中退し、横浜の港湾荷役会社に潜り込んだのである。
労働者を組織化しながら、「表」の活動として社会党の選挙を手伝った。


















