横浜駅西口「砂利置き場から一大繁華街へ」の70年 放置されていた「荒れ地」が変貌、次の再開発も始動

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財閥解体の動きも加速し、1948年1月に大東急が解体され、小田急、京王、京急が独立。こうした流れを受けて相鉄も自主経営路線へと舵を切る。幸運だったのは、米軍基地の新設拡張にともなう砂利、砂、砕石などの需要が急増したため、「砂利事業の黄金時代」が訪れ、相鉄の砂利生産量は「関東地区生産量の40%近く」(『相鉄七十年史』)を占めるまでになったことだった。

だが、こうした特需はいずれ終わる。将来的な発展のためには輸送設備の近代化、沿線開発、ターミナルの建設を”三位一体”で進めなければならない。そこで、帝都、小田急、東急を渡り歩く中で、新宿や渋谷がいかに発展したかを目の当たりにしてきた川又が目を付けたのが、当時は荒れ地が広がっていた横浜駅西口だった。

「石油タンク大爆発」で放置された西口

駅前の一等地にもかかわらず西口が長らく放置されていた理由は、次のような経緯による。現在の横浜駅周辺は「袖ヶ浦」という内湾だったが、明治中期以降に埋め立てが進められ、1922年の地形図を見ると運河に面して米石油大手・スタンダード石油の油槽所のタンクが並ぶ様子が描かれている。

1922年 横浜駅付近地形図
1922年の地形図。中央やや上に「スタンダード油槽所」の文字が見える。横浜駅はまだ高島町(地形図下)にあった(地図画像:国土地理院所蔵)
【写真】かつて「荒れ地」だったとは思えない現在の横浜駅西口付近の様子

それが1923年9月の関東大震災で大惨事をもたらす。貯油タンクが次々と誘爆して石油が運河に流れ込み、一帯が火の海と化したのだ。その後、住民の反対で施設は再建されず、1928年10月に横浜駅が高島町からこの地に移転し、「西口」となった後も放置され続けた。

やがて日米開戦となり、同土地は大蔵省(当時)の敵産管理委員会の手に渡り、1943年にその一部を相鉄が払下げを受けたが敗戦によって無効に。戦後は米軍に接収され、資材置き場になった。

1951年9月に日米講和条約が結ばれると接収解除が進む。西口の土地もスタンダード社の所有に帰し、同社が土地売却の意向を示すと、川又はただちに買収交渉に乗り出す。

横浜駅西口 スタンダード石油跡地 相鉄取得
スタンダード社から取得した横浜駅西口の土地。「相模鉄道株式会社所有地」の看板が見える(写真:相鉄グループ)
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