横浜駅西口「砂利置き場から一大繁華街へ」の70年 放置されていた「荒れ地」が変貌、次の再開発も始動
1941年6月からは、相模鉄道(この時点の路線は、現・JR相模線の茅ケ崎―橋本間)の取締役も兼務した。
同社はもともと、相模川の川砂利輸送を主目的に建設された鉄道で、昭和10年代に入ると三浦半島での軍事施設の建設などで砂利の需要が急増したことから、砂利業に精通している川又が起用されたのだ。当時、相模鉄道が五島慶太率いる東京横浜電鉄(現・東急)の傘下に入り、五島が小田急の取締役も兼務していたことから川又を人選したのだろう。
そして1942年5月、五島傘下の東横電鉄、小田急電鉄、京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)などが戦時統合し、東京急行電鉄(大東急)が成立すると、川又は東急の常務に選任されたが、翌年には東急を離れ、相鉄の副社長に転じている。理由は定かでないが、五島と川又はどちらも負けん気が強く、「有名な犬猿の仲だった」(『ヨコハマ再開発物語』神奈川サンケイ新聞社編)らしく、その確執によるものだろう。
それから2年、終戦が2カ月後に迫った1945年6月、川又は相鉄社長に就任した。
「鉄道の維持困難」だった当時の相鉄
当時の相鉄は、現・JR相模線(茅ケ崎―橋本間)を建設した相模鉄道と、現・相鉄本線(横浜―海老名間)を建設した神中(じんちゅう)鉄道が1943年4月に合併し、「営業路線61.8kmを有する」(『相鉄七十年史』)鉄道会社になったものの、翌年6月、元の相模鉄道の区間が戦時買収され、旧・神中鉄道の横浜―海老名間のみが残る状況だった。
しかも、人手不足・資材不足に加え、車両の老朽化などから単独での鉄道業の維持が困難となり、1945年5月には鉄道営業の一切を東急に委託した。川又が社長に就任したのは、このような大変な時期だった。
戦後は、鉄道業界にも大きな変化が押し寄せた。1947年5月末に東急への委託が解除され、鉄道事業が相鉄に復帰した。



















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