朝倉一族の強力なバックアップのもと、後を継いだ氏景は甲斐氏との戦いにおいて、自軍を大勝利へと導く。斯波氏は越前を諦めて、甲斐氏とは和睦。父と2代にわたっての越前平定が、ここに成し遂げられることとなった。
ベテラン家臣がリーダーを支えた
代替わりが行われるとき、組織はどうしても不安定になりがちだが、連綿と続いてきた組織ならば、側近のバックアップでうまく対応しやすい。
氏景が死去したときもそうだった。37歳の若さで氏景が亡くなり、治世がわずか6年で終わると、息子の貞景がわずか13歳で家督を継ぐことになった。このときも、叔父の朝倉光玖(こうきゅう)がバックアップしている。
そして、貞景が39歳のときに鷹狩りの帰りに急死すると、嫡男の朝倉孝景が10代当主となる。孝景は、曾祖父にあたる第7代当主、孝景にあやかって、同じ名を名乗った。
10代当主の孝景の治世においても、やはりベテラン家臣によって強力なバックアップがなされている。
その名は、朝倉宗滴(そうてき)。宗滴は、9代当主の朝倉貞景も補佐した、まさに名参謀だ。
1503(文亀3)年に家臣・朝倉景豊による謀反の企てを知ると、それを当主に密告して防ぎ、敦賀郡司に任命されている。以来、頭角を現して、朝倉家の政務と軍事を担った。
宗滴の働きぶりは、事実上の当主ともいわれるほどだった。朝倉家が越前で勢力を保持し、全盛期を迎えられたのは、宗滴がいたからこそだった。
朝倉家を知り尽くした宗滴。17歳から実に12回にもわたって出陣し、敵軍を蹴散らしてきた。
1506(永正3)年の九頭竜川の戦いにおいては、30万を超える加賀一向宗らが越前に侵攻してきたが、総大将の宗滴が率いる朝倉軍は、夜襲をかけてこれを撃退。朝倉側は、わずか8000~1万6000の兵だったというから、まさに伝説に残る戦いとなった。





















無料会員登録はこちら
ログインはこちら