機を見るに敏――。チャンスとみれば、即座に行動を起こす。そんな戦国の世で生き残るのに必要不可欠な決断力と実行力を、7代目の孝景は備えていたのだ。
世襲から実力主義への転換を図った
山名宗全と細川勝元という東西両軍の総帥が没すると、応仁の乱は終息へと向かうが、朝倉の裏切りは当然、禍根を残した。
斯波氏に代わり越前守護に任じられた朝倉氏は、甲斐氏や二宮氏らと対立。戦が再び繰り広げられ、孝景は息子の氏景(うじかげ)とともに、毎年のように甲斐氏と戦っては、越前から追い出すということを繰り返していた。
そんななか、孝景は、斯波氏や甲斐氏との戦いの最中に、53歳で腫物を患って病死してしまう。
後を継いだのは孝景の嫡男にあたる、朝倉氏景である。
実は、孝景の病については、広く噂が広まっていた。孝景さえいなくなれば、朝倉国は総崩れになるはず。そう考えていた敵国からすれば、待ち望んだチャンスが訪れたことになる。それだけ、孝景の存在が大きかったということだ。
孝景は病に倒れたあと、子の氏景と孫の貞景(さだかげ)に17か条の家訓を残し、それが「朝倉家之拾七カ条」として残っている。第一条は次のようなものだ。
「朝倉家では宿老を固定して決めてはならない。その時の本人の能力と忠誠心に応じて職務を命じるべきである」
宿老は、家老では最高職のポジション。朝倉家では、今後宿老を世襲制にしないとしている。能力主義の導入というわけだ。次の条項も伝統ある家とは思えないほど、合理性に富んでいる。
「高い名刀を1本持っていても、百本の槍に勝ることはない」
実際に孝景が残したものかどうかは確かではないが、こうした家風があったことは事実である。朝倉家が戦国時代を迎えるにあたって、実力主義の人材活用を目指し、かつ、合理的な戦の方法を突き詰めていたことがわかるだろう。
朝倉家の中興の祖となった、7代当主の朝倉孝景。病死したあと、朝倉家は勢いが衰えると誰もが予想した。だが、そうはならなかったのが、組織の面白いところだ。





















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