「78歳でも討伐のために出陣」織田信長の躍進を予見した朝倉家"戦国最強の爺"とは

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当時、越前は京都からも比較的近く、北陸地方、奥羽地方、そして、山陰地方に至る交通路の要だった。その越前の地で、朝倉家は斯波氏の重臣として活躍することになる。

朝倉広景以降は、現在の福井県福井市黒丸城町にあたる坂井郡三宅黒丸に居住していたが、5代目当主の教景の頃までには、一乗谷に移城したとみられている。それからは一乗谷の地で、朝倉家は越前の国での影響力を強めていく。

チャンスとみれば下剋上

1467(応仁元)年から11年にもわたって繰り広げられた、応仁の乱。この日本史上最大の内乱において大いに活躍したのが、7代当主の朝倉孝景(敏景)である。

孝景は実名を何度も変えており、元服後は「教景(のりかげ)」を名乗るが、壮年期は「敏景」、そこから「孝景」と改名。そのうえ、10代当主が曾祖父にあやかって同じ名である「孝景」を名乗ったため、なおさらややこしい。

7代当主の孝景は、幼少期から頭がよく儒教や仏教を学び、かつ、集まった軍士から弓馬合戦の奥義を学ぶなど、文武両道だった。

成長するにつれて、周囲の期待も高まり「善悪を正してよく人心に応えたので孝景が天下の政務を行うことを願わぬ者はいなかった」(『朝倉始末記』)という。リーダーになるべくして教育され、それに十分応えてきた孝景の様子が伝わってくる。

孝景は、越前守護斯波氏の三家老の1人となるが、斯波氏で内紛が起きると、守護代の甲斐常治と結んで勢力を伸ばす。さらに、甲斐常治の死去によって、越前での支配力を強めて、朝倉家の繁栄を築いた。

応仁の乱において、孝景は西軍として目覚ましい活躍を見せるが、東軍の細川勝元から「東軍に味方すれば、越前守護に任命してもよい」という条件をチラつかされると状況が変わっていく。

応仁の乱の原因を作ったともいわれる伊勢貞親(いせさだちか)から孝景に宛てて、東軍への勧誘工作があったことが、書状からもわかっている。孝景は「本当に将軍からの命なのか」と疑ったらしく、足利義政から御内書も出されている。

伸るか反るか。まさに、一家の命運を左右する賭けだったが、このまま西軍で活躍しても、見返りは限られていると、孝景は考えたようだ。

孝景は、東軍へと寝返ることを決意。裏切ったことで、1471(文明3)年には、越前国守護職を得ることに成功している。主家である斯波氏を出し抜いての異例の大出世だった。

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