80年代に市場経済原理の全面的な導入、いわゆる改革開放政策に舵を切った中国も、経済の近代化を進めるのに日本の資本と技術を必要としており、日中間の経済関係を深めることについての両国政府の思惑は一致していた。
こうした日中蜜月に水を差したのが89年の第2次天安門事件の発生である。日本人の中国人への感情は、「親しみを感じる」との回答が約70%であったが、事件後には50%強に急落し、それ以降、対中感情は悪化の一途をたどる。
それでも事件によって国際社会から孤立した中国に対する制裁には、日本政府は消極的であり、事件から1年後、事実上凍結していた円借款を再開している。
さらには92年の鄧小平による南巡講話で明確になったように政治改革と市場化改革を分離する「社会主義市場路線」の下で、90年代には日本企業の中国への直接投資ブームが生じていく。
さて、このように日中間の経済的な相互依存関係が深まる一方で、政財界を通じた対話・交渉のチャネルが十分に機能したとは言いがたい。
改革開放路線の下、中国はそれまでの重化学工業優先の経済発展から、輸出志向型の発展パターンへとシフトしていくが、日中経済のパイプ役を果たしていたのは、72年国交回復当時の日中関係を支えた重化学工業・プラント産業の関係者が中心だったからだ。とくに製造業における直接投資や技術移転、貿易収支の均衡といった中国側の新たな問題提起に対して、当時の政財界の対応は不十分だった。
さらに90年代以降の対中投資の拡大を通じた経済交流の多様化により、経団連や日中経済協会といった経済団体が、両国間に生じる様々な問題や衝突をトップダウンでマネジメントすることは一層難しくなっていく。
この時期からしばしば発生するようになった大規模な反日デモの発生後も、各経済団体は両国の関係改善に向けて様々な働きかけを行うが、政治的な相互不信は払拭できず、「政冷経熱」が常態化する。
東アジアのサプライチェーン構築と日本製造業の衰退
一方で2001年の中国のWTO(世界貿易機関)加盟を機に、製造業を中心とした日中の相互補完的な関係は一層強まっていく。
RIETI(独立行政法人経済産業研究所)が提供する貿易統計に基づく図を見ればわかるように、加盟前の99年当時には日本やASEAN(東南アジア諸国連合)も担っていた「組立・最終財輸出」の工程において、12年には中国が圧倒的な地位を占めるようになっている。
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