例えば「桃山水野左近東町」「桃山毛利長門西町」「桃山井伊掃部東町」「桃山町松平筑前」など。武将に由来すると考えられる町名が、ざっと数えただけで30以上もある。
水野左近は紀州新宮藩の藩主、毛利長門は長州藩を治めた毛利家の武将、井伊掃部(かもん)は、のちに彦根藩主となる井伊家の役職「掃部」を組み合わせたもの。松平筑前は、前田利家の子で加賀藩の藩主となっている大名である。
改めて思い知らされる秀吉の力
名護屋城跡周辺の武将交差点も伏見桃山城周辺の武将町名も、それぞれの場所に武将を集めたのは、まさに今放映中の大河ドラマ『豊臣兄弟』の兄の秀吉のほう。
秀吉が亡くなって400年以上が経つが、今もなお京都と佐賀に大きな文化の置き土産を残している秀吉の力を見せつけられるような思いだ。
江戸時代になって江戸市中に各地の大名の屋敷が造られると、それにちなんで「内藤新宿」(内藤家は信州高遠藩の藩主)や「紀尾井町」(紀州、尾張、井伊の徳川ゆかりの三家の屋敷があった場所)など、武家ゆかりの地名が今に伝わっている。
しかし、徳川260年の平和な幕府時代はともかく、実質10年ほどしか天下人の地位にいられなかった秀吉ゆかりの地名や交差点名がこれだけ残っているのは、本当に不思議である。
なお、秀吉の大出世を陰で支えた弟の秀長は1591年に没しており、ともに1592年の伏見城築城と文禄の役の始まりにはかかわっていない。
秀長が生きていれば、伏見城下に大名を集めたり、朝鮮半島に出兵したりするという政策を止めたかもしれず、大河ドラマ「豊臣兄弟」が秀長の死までしか描かないとすれば、伏見城も名護屋城も登場しない可能性もあろう。





















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