「10年あまりも牢人として暮らしていた」信長の重臣「明智光秀」が戦場での雑談まで禁止したワケ

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明智光秀が築いた福知山城(写真:papa88 / PIXTA)
明智光秀が築いた福知山城(写真:papa88 / PIXTA)
天下人となる兄を支えた弟の豊臣秀長にスポットライトをあてた、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。豊臣秀長は、豊臣政権内ではトップリーダーである秀吉と家臣たちとのよき橋渡しとなりながら、対外的には兄の代わりに有力な戦国大名たちと渡り合うこともあった。その働きぶりから「理想のナンバー2」とも評されるが、一体どんな人物だったのか。連載「秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像」の第12回では、織田信長に仕えた重臣でありながら、「本能寺の変」で信長を裏切った明智光秀について『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。
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不安定なフリーランスの身だった

明智光秀は、織田信長を襲撃して自害に追い込んだ「本能寺の変」の首謀者として知られる。

織田家の重臣でありながら、なぜ凶行に及んだのか。真相は謎だが、そもそも光秀はわかっていないことが多く、生まれた年すら判然としていない。基づく文献により1516年生まれか1528年生まれかで見解が分かれている。

明智一族の出自についても、後世で編さんされた系図から、室町時代に美濃国で守護を務めた名門・土岐氏の流れをくむ明智氏の出身だとされてきたが、同時代の史料では証拠がない。

一方で『光源院殿御代当参衆并足軽以下覚書』では、第15代将軍の足利義昭の足軽衆に「明智」と記されている。足軽衆には、将軍の直臣ではない身分の低い者が抜擢されていた。土岐明智氏の名は光秀がPRに用いていた可能性が高い。

つかみどころがないが、この得体の知れなさこそが、光秀という男の特徴だ。

低い身分から、その才覚のみを武器に、戦国大名へとのし上がっていく。

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