「10年あまりも牢人として暮らしていた」信長の重臣「明智光秀」が戦場での雑談まで禁止したワケ

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以前、この連載で織田家を「急成長したベンチャー企業」、今川家を「ベンチャーに倒産に追い込まれた名門企業」にたとえた(参照記事「桶狭間の戦い敗北で転げ落ちるように没落」 大河ドラマ「豊臣兄弟!」 約230年駿河に君臨した今川家、将軍に次ぐ権勢の凄さ」)。

明智光秀は、現代の社会なら腕一本で勝負するフリーランスのような精神で、荒波を乗り越え、天下をもつかみかけたのである。

光秀が表舞台に現れたのは、のちに第15代将軍となる足利義昭に仕えるようになってからのこと。

それまでは、出身の尾張から越前に移り、長崎称念寺にある時宗寺院の門前で、10年あまりも牢人として暮らしていたらしい。医学の初歩的な知識を持っていた光秀は、医師のようなこともしながら、なんとか生活していたという説もある。

しかし、光秀が仕えた義昭もまた、不安定な状況下にあった。

兄で第13代将軍の足利義輝が三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らに殺害されたのを受けて、義昭は姉婿である若狭国守護・武田義統の元に逃れた。

そこから越前へと移り朝倉義景を頼りながら、京都に何とか復帰しようと画策。そんなときに、光秀は義昭に接近して、気に入られたといわれている。

義昭は京に入って将軍に就任しようとするも、どうも朝倉義景の動きが鈍い。「幕府のために力を貸したい」とアピールする信長の存在感が際立った。

信長に頼るべきかどうか――。

幕臣たちのなかでも意見が分かれるなか、義昭は側近の細川藤孝を介して、信長に接近。連絡役となったのが光秀だ。信長との交渉をこっそり進めるために、朝倉家で顔が知られていない光秀が、美濃へと移ることとなった。

永禄11年、信長は義昭を奉じて京に入る。義昭は室町幕府の第15代将軍に就任。光秀は京都支配の担当者に任命され、信長の家臣とともに、文書を発給するようになる。

信長と義昭の架け橋となった光秀だが、やがて2人の関係性は悪化。信長は室町幕府を亡ぼしてしまい、明智は織田家の家臣として活動することになる。

家臣には戦場での雑談を禁止した

信長のもとで出世した人物といえば、豊臣秀吉が知られるが、家中で最初の城持ち大名となったのは、光秀である。

丹波(現在の兵庫県)を領有したほか、謀反を起こす直前には、与力も含めれば、畿内一円を統治している。

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