光秀を支えた家臣たちは、大きく分けて3つ。まず、明智秀満や斎藤利三のように、光秀と同じく美濃出身の武士たち。次に、光秀が領地とした近江や丹波から登用した武士たち。
そして、室町幕府に仕えていた武士たちだ。信長が幕府を滅ぼした際に、幕府に仕えた多くの武士たちが京都にとどまり、光秀の下に付いた者もいた。さらに光秀は、義昭に仕えた武士たちも、家臣や与力にした。
光秀は出自にこだわらず、多種多様な人材を戦力として登用。彼らをまとめるために、1581年に18条に及ぶ「家中軍法」を定めて、約束事や禁止事項を家臣たちに細かく示している。戦場での雑談や抜け駆けを禁止し、自分の命令に従わせることを徹底。その理由もきちんと説明している。
「明智家の軍法が乱れていると、〈武功がない人間だ〉〈国のごく潰しが公務を怠っている〉など嘲笑されて、周囲に迷惑をかけてしまう。格別な働きをすれば、信長様の耳にすぐ届くことだろう」
こうして細やかな統制をとることで、光秀はエキセントリックな上司である信長の期待に応え続けたのである。
領民目線の政策を数々打ち出した
出自の異なる家臣たちにきっちりルールを守らせながら、光秀は丹波を治める丹波亀山城主として、内政においても手腕を発揮する。
本拠地である亀山城に加えて、横山城も改修。さらに周山城を新築して、城郭を整備しながら、重臣たちを適切に配置し、各地の支配を任せた。
支配体制を整備する一方で、住民を苦しめる問題にもきちんと向き合った。由良川の治水工事に着手したり、地子銭と呼ばれる税金を免除したりするなど、さまざまな政策を行い、領内を安定化させている。
リーダーとして申し分ない実力を発揮した光秀。「本能寺の変」は、信長の横暴なふるまいに我慢の限界がきたともいわれている。
抱えている家臣や領民たちにとって、よりよい社会を築くためには、信長を排除するほかないと思い詰めたのだろう。
光秀は「本能寺の変」で信長を討つも、備中高松城攻めから引き返してきた羽柴秀吉の軍と激突する(山崎の戦い)。このときに羽柴秀長や黒田官兵衛隊も明智軍と交戦。主君の敵討ちに一役買うことになる。
【参考文献】
高柳光寿著『明智光秀』(吉川弘文館)
小和田哲男著『明智光秀・秀満:ときハ今あめが下しる五月哉』(ミネルヴァ書房)
柴裕之著『図説 明智光秀』(戎光祥出版)
福島克彦著『明智光秀 織田政権の司令塔』(中公新書)
太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
真山知幸著『企業として見た戦国大名』(彩図社)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)
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