「味方の死傷者が増えていく…」織田信長の上洛で"秀吉が難攻不落の城を攻め落とした"はウソ?

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
松明
藤吉郎は「三尺の大松明を数百用意」、それを山麓から中腹まで五十数カ所に積み重ねます(写真:TAKEZO / PIXTA)
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、天下人・豊臣秀吉の弟である豊臣秀長を中心に、戦国時代のど真ん中で天下統一を果たした兄弟の軌跡にスポットライトがあてられています。今回は織田信長の上洛と秀吉の活躍について紹介します。
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

信長による箕作城攻め

永禄11年(1568)9月7日、織田信長は足利義昭(13代将軍の足利義輝の弟)を奉じて上洛を開始します。その際、信長は「近江国を一度で討ち果たし、お迎えに参ります」と義昭に言上しました。そして、尾張・美濃・伊勢・三河の軍勢を率いて、岐阜を立ったのです。

翌日、近江国の高宮(彦根市)に着陣した信長軍は、2日ほどここに逗留し、人馬を休息させます。同月11日には、愛智(知)川の近くに「野陣」(野営)し、そこを信長は馬で駆け回ったのでした。

近くには、敵城が数カ所ありましたが、信長軍はそれには目もくれず、六角義賢・義治父子らが籠城している箕作城(滋賀県東近江市)に同月12日に攻めかかったのです。

六角氏の城には、和田山城や長光寺城などもありましたが、信長はその城には攻撃は加えず、箕作城をまず攻めたのです。

信長が野陣の際、馬で駆け回ったことは先述しましたが、おそらくその時、どこを攻めればいいか探索していたのでしょう。

箕作城を攻め落とすことができれば、観音寺城(滋賀県近江八幡市)を孤立化することができると信長は踏んだのだと思います。

次ページ信長の一代記『信長公記』に秀吉が登場
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事