「味方の死傷者が増えていく…」織田信長の上洛で"秀吉が難攻不落の城を攻め落とした"はウソ?
信長による箕作城攻め
永禄11年(1568)9月7日、織田信長は足利義昭(13代将軍の足利義輝の弟)を奉じて上洛を開始します。その際、信長は「近江国を一度で討ち果たし、お迎えに参ります」と義昭に言上しました。そして、尾張・美濃・伊勢・三河の軍勢を率いて、岐阜を立ったのです。
翌日、近江国の高宮(彦根市)に着陣した信長軍は、2日ほどここに逗留し、人馬を休息させます。同月11日には、愛智(知)川の近くに「野陣」(野営)し、そこを信長は馬で駆け回ったのでした。
近くには、敵城が数カ所ありましたが、信長軍はそれには目もくれず、六角義賢・義治父子らが籠城している箕作城(滋賀県東近江市)に同月12日に攻めかかったのです。
六角氏の城には、和田山城や長光寺城などもありましたが、信長はその城には攻撃は加えず、箕作城をまず攻めたのです。
信長が野陣の際、馬で駆け回ったことは先述しましたが、おそらくその時、どこを攻めればいいか探索していたのでしょう。
箕作城を攻め落とすことができれば、観音寺城(滋賀県近江八幡市)を孤立化することができると信長は踏んだのだと思います。




















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