「味方の死傷者が増えていく…」織田信長の上洛で"秀吉が難攻不落の城を攻め落とした"はウソ?
一方、敵方の六角氏は「江州の強兵」と堀や鹿垣を巡らせて、攻撃に備えていました。北口の先陣を仰せ付けられた木下軍の兵たちは、顔を見合わせて「名誉の先駆けであり、存分に武功を立てよう」と先を争い、箕作山を駆け上ります。
ところが、箕作城は要害堅固。攻め上るも追い崩され「散々」でした。日が沈む頃になっても「勝算」は見えません。
味方の死傷者が増えていく現状に藤吉郎は危機感を抱き、蜂須賀小六らに手立てを「相談」します。小六の回答は「夜討ちの行肝要」(夜襲が肝要)というものでした。
小六の進言に納得した藤吉郎は「三尺の大松明を数百用意」、それを山麓から中腹まで五十数カ所に積み重ねます。そして頃合いを見て、一斉に点火。
木下軍兵はその松明をかざして城を攻め立てたのです。この夜襲は見事、成功。籠城する六角勢は城を捨て「退散」したといいます。
秀吉軍の活躍により、箕作城が落ちた?
藤吉郎の配下である小六や前野将右衞門の手の者は、いずれも夜討ちに長けていました。四方よりよじ登り、攻め寄せ、敵を切って回り、首「二百有余」を獲ったとのことです。『武功夜話』は、秀吉軍の活躍により、箕作城が落ちたとの書き振りです。
しかし『信長公記』にはそのようなことは一切、書かれていません。『武功夜話』は後世の編纂物であり、信憑性については低いと言われています。
今回見てきたように『信長公記』などには載らない逸話も多く掲載されていて興味深いものではあるのですが、眉に唾する必要はあるでしょう。
箕作城攻めの後、秀吉の「武辺才略」をしかと見極めたとして、信長は大層ご機嫌だったようです(『武功夜話』)。
(主要参考文献一覧)
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(新人物文庫、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)
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