「味方の死傷者が増えていく…」織田信長の上洛で"秀吉が難攻不落の城を攻め落とした"はウソ?

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さて、箕作山にある箕作城を攻撃したのは、佐久間信盛・木下藤吉郎・丹羽長秀・浅井政澄ら織田方諸将でした。

信長の一代記『信長公記』に秀吉が登場するのは、この箕作城攻めの場面です。ちなみに、六角父子は三好三人衆に通じ、信長に敵対する姿勢を見せていました。よって、信長軍の攻撃対象となったのです。箕作城はその日の夜には落城します。

信長は先年、美濃国を手中にしていましたが、それもあり美濃衆(美濃の国人)は「この度の戦では、きっと先陣として戦うことになるだろう」と考えていました。

ところが案に相違して、信長は美濃衆を活用せず、自身の御馬廻でもって、箕作城を攻めたのです。箕作城を落城させた信長は箕作山に陣を置き、六角義賢が籠る観音寺城に翌日攻めかかる目算でした。

ところが翌日になってみると、六角父子は既に城を抜け出し、空になっていたのです。信長は楽々と観音寺城を手中にしたのです。これを見た近江国の国人は、次々に信長に降伏。信長はそれら国人から人質を取り、元のように城に置いたのでした。これにより「一国平均」(近江国平定)が成ったと『信長公記』は記載します。

信長は末席にいた秀吉を指名

信長上洛戦における秀吉に関する記述は、木下藤吉郎らに「箕作山の城攻めさせられ」と非常に簡潔ですが『武功夜話』(前野氏の歴史を記した家伝史料、軍記)にはもう少し詳細な記載があります。

観音寺城攻めの手配を行う信長。軍議の席に藤吉郎は連なっておりましたが、それは「末席」でした。万事、控え目にしていたという藤吉郎。それに目を付けたのが信長であり、歴々(地位の高い人々)を差し置いて、藤吉郎に箕作城攻めの先陣を命じたと『武功夜話』にはあります。

観音寺城には佐久間信盛が、箕作城には「北の口」から藤吉郎が、「東口」からは丹羽長秀が攻めかかることになったとあります。佐久間信盛は2500、丹羽長秀は3000余人、藤吉郎は2300余人の軍勢で城攻めをすることになります。

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