「三好三人衆の猛攻で危機」 本圀寺の変で急ぐ織田信長が"文句言う運送業者"を殺さなかった理由
足利義昭を奉じて上洛した信長
永禄11年(1568)9月、足利義昭を奉じて上洛を開始した織田信長は、敵対勢力を蹴散らして都に入ります。そして同年10月18日、義昭は征夷大将軍に任じられるのです。義昭は信長を書状で「御父」とまで呼び、感謝の意を表しました(10月25日)。10月28日、信長は都から岐阜に戻ります。信長が上洛する際には、都は騒然としたようですが、この頃には落ち着いていたものと思われます。
しかし、年明け(1569年)に事変が起こるのです。上洛戦の際、信長に撃退されていた三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)が阿波国から和泉国堺に進出、都に侵入してきたのでした(1月3日)。
洛中の至るところに放火されたことから、京中は再び「騒動」となります。三好三人衆の軍勢は、将軍・義昭の宿所・六条の本国寺を襲撃します(1月5日)。
この時、本国寺に立て籠もっていたのは、細川藤賢・野村越中守・織田左近将監・赤座七郎右衛門・津田盛月・坂井直政・明智十兵衛(光秀)といった人々でした。
義昭の側近や織田家中の人々がいたのです。約2000の軍勢だったようですが、対する三好方は5000(1万という説もあり)、義昭側が圧倒的に不利でした。三好方には、美濃の大名で信長に追われた斎藤龍興も加わっていました。





















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