「三好三人衆の猛攻で危機」 本圀寺の変で急ぐ織田信長が"文句言う運送業者"を殺さなかった理由
『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記)によると、三好勢は、薬師寺九郎左衛門を先駆けとして、本国寺を包囲。門前の家々を焼き払い、寺中に攻め込む構えでした。
そしていよいよ戦が始まりますが、同書には義昭方の山県源内・宇野弥七(若狭衆)の活躍が記されています。
「隠れなき勇士」である両人は、敵方の薬師寺九郎左衛門の旗本に切ってかかり、敵勢を切り崩し散々に戦います。敵兵の多くに手傷を負わせるほどの奮戦でした。
だが、山県・宇野も奮戦の末に「討死」してしまいます。義昭方は劣勢でしたが、弓矢を使った攻撃により「三十騎」ばかりを射倒すなど三好勢を混乱させるのです。
これでは、三好方は寺中に侵入することはできません。そうした時、義昭方の細川藤孝・池田勝正・三好義継らが後方に控えているとの報が薬師寺九郎左衛門に入ります。
これにより、薬師寺氏は攻撃の手を緩めるのでした。細川藤孝らの軍勢は、桂川の辺りで三好勢と激突。黒煙をあげて戦い、三好方の武将の首を多く獲ることになります。
三好三人衆による襲撃の知らせを受けた信長は…
三好三人衆の軍勢が都を襲ったとの知らせは、1月6日に岐阜の信長に届けられました。当時は凄まじい「大雪」が降っている最中。しかし、信長は大雪を物ともせず、すぐさま上洛する命令を下すのです。信長は自ら率先して馬で駆け出そうと、馬を召します(こうしたところは、尾張時代の信長と変わっていません)。
が、運送業者の「馬借」たちが過重の荷物を馬に負わせることになると言って、言い争いを始めるのです(『信長公記』)。
「自分の馬の方が重い荷物を背負っている。これは不公平ではないか」「何を!そんなことはないはずだ!」というような言い争いが起こったと推測されます。この言い争いを解決しなければ、進軍は遅れるばかりです。





















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