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1985年、19歳で「ショパン国際ピアノコンクール」優勝。モスクワ生まれのピアニスト、スタニスラフ・ブーニンは、コンクール後の日本で、クラシック音楽家として例のない熱狂を生んだ。「ブーニンフィーバー」「ブーニン現象」とも言われた大ブームだ。
亡命、左手の麻痺による活動中止、足首の深刻なけがと難手術、過酷なリハビリ――。多くの困難を乗り越え、再び舞台に立つようになったブーニンが、いま再び注目されている。2022年、復帰の過程を追うドキュメンタリー番組が制作された。2025年12月、サントリーホールでリサイタルを開くにあたり、書籍『
ブーニン 天才ピアニストの沈黙と再生』が出版された。さらに2026年2月、リサイタル映像を収録した
映画が公開された(書籍と同タイトルの『ブーニン 天才ピアニストの沈黙と再生』)。
ショパンコンクール後、共産党支配下のソ連・モスクワで直面した苦い現実、そうした中でも損なわれない音楽の普遍的な価値について聞いた前編に続き、後編では「ブーニンフィーバー」を本人はどう受け止めたのかなどを聞いた(通訳:蔵原順子)。
ソリストとして「雇われる」ようになった
――ショパンコンクール優勝後、本格的な演奏活動を開始されました。
コンクール後はさまざまなコンサートに出演しましたが、言ってみればそれは、「雇われる」ようになったということです。私は多くの聴衆の前でピアノを弾くソリストとして雇われるようになった。労働力としてみなされるようになったわけです。
ピアノを弾くことは今も変わらず私の職業なので、当時から今に至るまで同じように、「演奏=仕事」ではある。ですが、コンクール前の私には、大きなホールで大勢の聴衆の前で演奏する機会はなかったんです。
もちろんコンクール前から私のことを知っていた人たち、私の音楽を聴いてくれていた人たちも、小さい輪の中にはいた。けれども私には、「大ホールで大聴衆の前で演奏する」という扉は開かれていなかった。ショパンコンクール優勝によって、その扉が開いた。
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【脚光を浴びた本人はどう感じていたのか】
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