同居人は秘密のブドウ電撃作戦に気づかなかったので、買いたての赤いミニシクラメンも白いデンドロビウムも俺はそこにそっと運び込んだ。スティルス型植木鉢による実効支配である。どこかの国がやっているような実に憎むべき一方的進攻だ。
なんにせよ、結局俺はベランダをからっぽにしては生きていられないらしい。
自分勝手な贖罪
ベランダ南西側、いまやラックに載せられた太陽光パネルの下に、午後時々光を浴びながらジャガイモが育っている。
育っていると言っても、3分の1に切ったジャガイモをすべて小さなプランターひとつに植え込んだもので、「強制的な分球」と呼ぶのが正確である。しかしそれでもイモはさすがに元気なもので、自重に耐えきれずに倒れたままの茎から、濃い緑の葉を日々茂らせている。
アブラムシにやられやすいのは長年の園芸生活でよく知っているから、葉がしおれ出したらすぐ水をやり、なおかつ葉水を与えることも忘れない。
ありがたいことにアサガオと似ていて水が足りないと葉が素早くシオシオとし、緊急事態だと教えてくれる。それは我慢強く水枯れを表情に出さない他の植物にとっての警報サイレンみたいなもので、水やりのタイミングを外さずに済む。
さて、強制的に分球されたジャガイモのカケラが現在どの程度太っているかを、俺は把握していない。というのも植えてから半年で、それも種から育てたのでない場合、作物が爆発的に容量を増やすことはないと知っているからで、今は調べるべき時ではないのだ。
そもそもそのジャガイモは、元日に能登を襲った地震の数日後、平常心を保ったような顔をしていた俺が、実は無意識にはパニックになっており、「突然の災害のためにベランダの一部を菜園化せねばならない」と考えたがゆえにあわてて植えられたものであった。
冷静になれば、ジャガイモひとつを切り分けてプランターに植えたところで、災害時の備えになどならない。もし十二分に増えたのだとしても、1人の食事にさえ満たないのは明らかだ。
それでも正月、冬のベランダに出て、よく水に浸けておいたイモを土に返す行為を自分は止めることが出来なかった。
それどころか、同じプランターにはその後、絶対に腹の足しにならないハーブも植えられた。そのあたりで俺もさすがに、自分が一体何をしているのかに気づいた。
地震の報道に触れる度に、自分が何も出来ていないことへの罪の意識が生じる。そして、 せめて自分の生活の一部を変えたいと思い、まったく価値がないに等しい作物を育てる。 つまり、それらは無意識的な代償行為だったのだ。




















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