【べらぼう】狂歌ブームの立役者・大田南畝は凄い人!平賀源内が推した、"江戸で大バズりのインフルエンサー"誕生秘話

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大田南畝の水鉢への案内板 十二社熊野神社(新宿区西新宿)
大田南畝の水鉢への案内板 十二社熊野神社(新宿区西新宿)(写真:mandegan / PIXTA)
NHK大河ドラマ「べらぼう」では、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心にして江戸時代中期に活躍した人物や、蔦重が手がけた出版物にスポットライトがあたっている。連載「江戸のプロデューサー蔦屋重三郎と町人文化の担い手たち」の第25回は、江戸幕府の下級役人であり、かつ「四方赤良」や「蜀山人」の名も持ちながら、戯作・狂歌など文筆活動で名を馳せた大田南畝について解説する。
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デビュー作でバズった神童「大田南畝」

「バズる」。SNSやインターネット上で情報やコンテンツが爆発的に広がることをいう。そんな言葉が生まれる前から、ある発信をきっかけに、すさまじいスピードで多くの人々に注目されるという現象はあった。

江戸時代中期に活躍し、大河ドラマ「べらぼう」で注目されている戯作者・大田南畝(おおたなんぽ)もまた、ひとつの作品で名を馳せることになる。その作品の名は『寝惚先生文集』(ねぼけせんせいぶんしゅう)。デビュー作である。

 大田南畝は寛延2(1749)年、江戸牛込中仲御徒町の幕府御家人の家に生まれた。幼少期から頭脳明晰で、両親としても大いに期待したらしい。8歳のときに、のちに医師となる多賀谷常安のもとで漢文を学ぶ。

そのポテンシャルにおののいた多賀谷は、南畝が15歳のときに自身の師である内山賀邸(うちやま・がてい)を紹介。賀邸のもとで南畝は主に国学について学び、めきめきとその頭角を現すことになる。

17歳のときに、父と同じく「御徒」という城内の番所に詰めて警備にあたる仕事に就いたが、出勤は月に数回のみ。金は稼げないが、時間はあるため、南畝はさらに学びを深めていく。18歳の頃には荻生徂徠派の漢学者・松崎観海にも師事した。

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