さらに寛政5(1793)年、48歳のときには幕府に願い出て、和学講談所を設立している。先に触れた杉山和一と同様に、多くの弟子を育て、視覚障がい者に「学者」という職業の選択肢を与えることになった。
そして、文政2(1819)年、74歳のときに正編666冊、続編1185冊にも及ぶ「群書類従」(ぐんしょるいじゅう)を完成させる。34歳から実に40数年の年月をかけて、失われつつある各種文献をひたすら収集したのだから、すさまじい執念である。
ひたむきに学問に打ち込んだ保己一だが、ユーモアあふれる人柄だったらしい。ある晩、弟子たちが保己一から『源氏物語』の講義を受けていると、突然風が吹いてきて、ロウソクの炎が消えてしまった。真っ暗になって慌てる弟子たちに向かって、保己一はこう言ったという。
「目が見えるというのは、不便なものですね」
保己一に感銘を受けた2人の偉人
文政4(1821)年には、視覚障がい者として最高位である「総検校」となると、同年に76歳で保己一は生涯を閉じている。
死後、その偉業は2人の偉人によって、後世に語り継がれる。一人は渋沢栄一だ。大正11(1922)年に、渋沢は保己一の偉業顕彰のために「温故学会」を設立。保己一が編纂した『群書類従』の版木を保管し、一般にも公開している。
さらに昭和12(1937)年に、ヘレン・ケラーがアメリカ大統領の平和親書を携えて来日したときにも、保己一の業績が注目されることになった。
ヘレン・ケラーといえば、視覚と聴覚の重複障害がありながら、社会福祉に身を捧げた「奇跡の人」として知られる。そんなヘレンが講演会でこう語ったのである。
「私は特別な思いを持って、埼玉県にやってきました。それは、私が心の支えとして、また人生の目標としてきた人物が埼玉県出身だったからです。その方のお名前は、ハナワ・ホキイチ先生と言います」
幼くして失明しながら、偉大な国学者となった塙保己一。今回のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、高利貸しの鳥山検校がクローズアップされることになったが、蔦屋重三郎と同時代を生きた検校・塙保己一のことも心に留めておきたい。
【参考文献】
太田善麿『塙保己一』(吉川弘文館)
堺 正一『奇跡の人・塙保己一 ヘレン・ケラーが心の支えとした日本人』(埼玉新聞社)
堺 正一『塙保己一とともに: ヘレン・ケラーと塙保己一』(はる書房)
「塙保己一物語」(埼玉県オフィシャルウェブサイト)
長尾榮一『史実としての杉山和一』(桜雲会点字出版部)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら