3年後の宝暦10(1760)年、15歳のときに江戸に出ると、当道座に属して、検校の雨富須賀一(あめとみ・すがいち)に弟子入りしている。しかし、師匠や兄弟子から鍼灸や按摩、琴・三味線などの手ほどきを受けたものの、どれもものにならなかったという。
1年間修業を積んでも、上達が見られなかったとき、保己一は自ら命を絶つことさえ考えた。だが、保己一は絶望のなかで、自分の長所へと立ち返る。物覚えがよく、これまでたくさんの本を読んできた。ここにこそ、自分が生きる道があるのではないか、と。
保己一は思い切って「学問に身を投じたい」と師匠に打ち明けた。何をやってもうまくいかない保己一がそんなことを言い出せば、一蹴されてもおかしくはないが、師匠からはこんな温かい言葉をかけられたという。
「博打と盗みはいけないが、好きな道を目指すのは結構なこと。これから3年間は面倒をみよう。しかし、見込みがなければ故郷に帰すとしよう」
それ以来、保己一は隣家に住む旗本・松平乗尹(のりただ)から学問の教えを受けることになる。その熱意は乗尹をも驚かせるものだったらしい。
乗尹は「保己一には系統立てた学問をさせたほうがよい」と雨富検校に説明しながら、萩原宗固(はぎわら・そうこ)や山岡浚明(まつあけ)らを紹介。保己一は萩原宗固から和歌を、山岡浚明から律令を、川島貴林(たかしげ)から神道を学び、幅広いジャンルで見識を深めていく。
18歳のときには、座頭の最初の位である「才敷(彩色)衆分」という位につき、その学力が高く評価されるようになった。雨富検校と約束した「とりあえず3年」という区切りのなかで、保己一は学問で将来への道筋をつけることができたといえよう。
そして24歳のときに萩原宗固から国学者の賀茂馬淵(かもの・まぶち)を紹介され、その門下生となったことで、さらなる飛躍を遂げることになる。
40数年の年月をかけた偉業とは?
塙保己一が残した大きな業績がある。保己一は安永8(1779)年、34歳のときに、こんな目標を掲げている。
「全国に散在している古代から近世までの貴重な史書、秘伝書、文学作品を編纂して、出版したい」
途方もないプロジェクトに挑みながら、天明3(1783)年には38歳で検校にまで昇格。天下に知られる国学者となった。

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