ヘレン・ケラーも憧れた検校「塙保己一」のスゴさ 蔦屋重三郎と同時代に活躍、どんな人物像か?

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例えば、杉山和一の場合は、不器用さから鍼医から破門されるが、「技術が未熟な自分でもできる鍼術はないか」と発想を転換させて「管鍼術」を考案。管のなかに鍼を通して施術を行うことでソフトな刺激を可能にした。日本鍼灸の礎を築いたうえで、鍼治学問所を開設し、後進も育てている(過去記事『「鳥山検校」「杉山検校」2人の視覚障がい者の生涯』参照)。

そのほか、視覚障がい者には「官金」(かんきん)と呼ばれる金融業も認められたため、高利貸しで生計を立てる者もいた。その最たる例が、「べらぼう」でも話題になった鳥山検校だ。安永4(1775)年に、1400両(現在の紙幣価値に換算して約1億4000万円)をも支払って、吉原随一の花魁である「五代目・瀬川」を身請けし、江戸の町を騒がせた。

さすがに目立ちすぎたようで、3年後の安永7(1778)年に、鳥山検校は悪質な高利貸しだとして問題視され、全財産を没収。江戸から追放されてしまった。

しかし、視覚障がい者が生きる道もそれぞれである。そんなふうに鳥山検校が、絶頂から奈落の底に叩き落とされたのと、同時期のことだ。安永8(1779)年に一人の視覚障がい者が、芸能や鍼灸・按摩でもなければ、金融業でもない、まったく違う道を切り拓こうとしていた。

彼の名は「塙保己一」。異国の地のヘレン・ケラーをも勇気づけたという保己一は、いったいどんな偉業を成し遂げたのだろうか。

自殺をも考えた塙保己一の修業時代

塙保己一は延享3(1746)年に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に、百姓の父・萩野宇兵衛と母・きよの間に、長男として生まれた。

幼い頃から物覚えがよく、本を読んでもらうとすぐに覚えてしまうような子どもだったという。病によって、7歳のときに失明した保己一。「江戸では『太平記』を暗記してそれを読み聞かせて名を成している者がいるらしい」と耳にしたときに、こんなことを言ったという。

「わずか40巻の本を暗記することで妻子を養えるなら、自分にもできるのではないか」

12歳のときに、いつも自分のことを心配し、支えてくれた母を病で亡くす。自分の将来を真剣に考えるようになった保己一は、失意のなか、江戸への出立を決意する。

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