祖父から継いだものはもう1つ。嘉永生まれの祖父は92歳まで生きた。
「ずいぶん長生きだなと思いましたが、私も祖父の血を継いでいますね」
薬剤師の資格を取ったのは、尊敬する父のすすめだった。
女学校を卒業する前に「これからどうするの?」と聞かれた幡本さんは、「師範学校に行きたい」と答える。すると父は「僕は薬剤師になるのが一番いいと思うよ」と助言してくれた。
それは「薬剤師のお免状(免許)は君が死ぬまでついて回るよ。一生仕事ができる」ということだった。
女学校を卒業した幡本さんは、東京・谷中の東京薬学専門学校(現・東京薬科大学)女子部に進学。1941年に太平洋戦争が開戦し、戦火が広がる中で卒業した。幡本さんは化学工場の研究室に就職する。
「ビーカーを振ったり塗料の分析をしたり」という毎日。やがて戦争が激しくなり、最愛の父も病気で亡くなった。空襲で焼死して隅田川に浮かぶ遺体が瞼から消えず、疎開先の長野では終戦2日前に機銃掃射にも遭遇した。
一生の仕事になると父が描いてくれた薬剤師の夢は、いつしか幡本さんの頭から消え去っていた。
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夫が友人の連帯保証人になり、店を失った
終戦後、25歳で結婚。日本は平穏な日常を取り戻しつつあり、幡本さんは夫の商売を補佐しながら、2人の娘に恵まれた。ところが、ある日突然、夫から「数日後に引っ越すから」と告げられる。何を聞いても、夫は「店を畳むよ」としか言わない。
「娘たちはまだ幼稚園。従業員の人たちも突然仕事を失って大変だろうし、私たち家族もこれからどうなるの? と聞いても主人は黙りこんだきり。あとでわかったのですが、主人は親友の連帯保証人になっていたんですね。それで店を失ってしまいました」
小さな家を1軒持っていたので、一家はそこに引っ越した。暮らしは一変したが、幡本さんは「これはこれでいいかも」と考える。
「女の人は専業主婦が当たり前の時代でしたが、私は主人の店で働いていたから、いろいろ苦労もあったの。人も使っていたし、お炊事はお手伝いさんがいたけれど、子どもたちのことも見なきゃいけないので忙しかった。店がなくなり、私は家庭のことだけやればいいので、前よりも楽になったわって(笑)」
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