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筆者も歴史屋を名乗っているので、歴史小説を読まないわけではない。しかしおもしろいと感じた経験はあまりなかった。歴史を小説・文学というフィクションのエンターテインメントとみるには、どうにも違和感がある。
このあたり個人の嗜好・自身の性向に関わるだけなので、その正誤・善悪を問題にしたいわけではない。ただそんな性向は、やはり自身の資質ともあいまって、学問や作品にも影響する。
歴史学の叙述は時間の流れに即して、社会の全体を明らかにするものにほかならない。個人をとりあげても、それは社会に還元するためである。伝記・評伝・小説は個人の履歴・生涯・人間関係を語ること自体が目的だから、そこで一致しない。
宿る「神」こそ明らかに
「神は細部に宿り給う」。歴史研究の常套句である。だからといって、細部がわかればよいというものでもない。こちらがほんとうに明らかにしたいのは、宿る「神」である。宿った「細部」ではない。宿った先がわからないと、宿り方も宿り主もわからないから、ディテールにこだわるのである。
逆に、宿る「神」のありようがわかったなら、もはや細部はいらない。そこに概説や一般理論、法則の存在理由がある。
またほんとうに「細部」がわかるためには、宿った「神」のありよう・正体もわからなくてはならない。そのために巨細ともども、漏れなく俎上にのぼせて観察する必要がある。どの細部が重要なのか。世の事実・事象は無数にあるから、すべてを研究・分析・論述の対象にはできない。だから広い視野からの選択眼も問われる。
歴史叙述にとって最も大事なことでありながら、そうしたセンス・能力を兼ね備えた歴史家はそう多くはない。かくいう筆者など、もちろん力不足の最右翼である。それでも不足の意識・自覚だけは忘れないようにしたい。
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