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小欄第77回でノブレス・オブリージュと身分制に論及したところ、東アジアに身分制がないとは言い過ぎではないかとのご意見をいただいた。ご指摘に感謝したい。
もちろん社会的な身分は、昔も今も牢乎(ろうこ)としてあるだろう。実際の格差もひどい。しかしいわゆる身分制とは、必ずしもそういう意味ではなかった。
そもそも集団が秩序を保って活動するには、上に立つ者と下で従う者が必要である。人間社会・古今東西の真理であり、そうした上下をいかに分かつかで、社会の個性が決まる。
エリートを選出する仕組み
上に立つ者をかりにエリートと呼ぶとすれば、ある一定の範囲に限ってエリートを選出するシステムが、身分制だといえよう。その範囲は人間集団の単位をなす血族・家門であることが多い。君主・王室などが典型である。身分制・階級制があるのは、エリートを安定的に供給するためだといっても、おそらく過言ではない。
だが、一定の家門がエリートにふさわしい人材を供給し続けることができるか、といえば疑問符がつく。そこで身分制だけでなく、資格にかかわらず個人の才力・資質をはかるシステムも発達した。
大統領をトップに戴(いただ)くアメリカの制度は、その典型なのだろう。もっともアメリカには、身分制はなくとも人種差別が厳存する。身分制がないことと平等社会とは、決してイコールではない。
史上つとに科挙制度をはじめて身分制を廃した東アジアにも、おびただしいエリートがいる。それに即した身分感覚・エリート意識は、現代に至るまで厳存してきた。
いかに安定的継続的にすぐれたエリートをもつことができるか。おそらく古今東西、人類の歴史が試行錯誤してきたところであって、身分制はたとえば、その一形態だと考えるのが適切だろう。
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