私は宗教というものがわかっていない。それは「祈る」という行為が、いまだによく理解できていないからである。
特殊部隊を辞めて、3年間住んでいたフィリピンのミンダナオ島で、こんなやり取りを現地に住む人たちと何度もした。
「ところで、君たちにとっての祈りって、何だ?」
「日本人は、祈らないのか?」
「違う。これは俺自身の問いだ。俺も祈ることはあるが、君たちの祈りとはだいぶ違うようなんだ」
「私たちの祈りの意味か。それは……」
ミンダナオ島は、キリスト教圏とイスラム教圏の境界線上にある。それゆえに紛争が絶えないが、それぞれの宗教の敬虔な信者と会うことならいくらでもできた。
だから、私は教会にも行ったし、モスクにも行った。海外で宗教の何たるかを理解していない者がその話題に触れると、意図せず無礼な発言をする可能性があるので、避けるべきだと言う人もいた。そんなことはお構いなしに、自分から機会を作って多くの人に、その人にとって「祈る」とはどういうことなのかを質問した。
しかし、どうしても理解できない。当初は「苦しいときの神頼み」のようなものかと思っていたが、そういう俗な意味での「他力本願」とは違うと誰もが言う。「感謝」だとか「神への問いかけ」だとか、いろいろな説明を受けた。結局、どれ一つ私の腹に落ちることはなかった。
ミンダナオ島居住以前も以後も、日本で寺に行ったことは数え切れないし、何人もの坊さんにも質問した。でもよくわからない。
自分に祈る資格はない
「身命を賭して、天佑を待たん」。これは、先の大戦中にラジオから流れた言葉だそうだ。
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