群馬県の上毛新聞社主催でシンポジウムが催され、基調講演を頼まれた。シンポは「養蚕技術の普及に懸けた先人たち」というテーマで、養蚕の優れた教育機関だった高山社(たかやましゃ)と競進社(きょうしんしゃ)の役割について、パネリストたちが語った。私に与えられたテーマは、「歴史に学ぶリーダーの資質」だった。
幕末の先覚者は“和魂洋芸”“東洋の道徳と西洋の科学(技術)”を唱えた。いずれも「日本人の精神を大切に保持しながら、ヨーロッパの先進技術に学ぼう」ということだ。しかし実際には後者にウエートが置かれ、ヨーロッパに追いつけ追い越せとなり、心も洋化されて、“洋魂洋芸”になってしまった。
和魂洋芸は今も大切で、リーダー論を話すときには私はグローカリズム、恕(じょ)の精神、風度の必要性を強調している。その意味で養蚕にかかわりのあるリーダーとして、渋沢栄一を例にした。現埼玉県深谷市の農家に生まれた栄一は、少年時代から日本のシルクロードといわれた群馬県に、繭や藍玉をよく買い付けに行った。その鑑識眼は鋭く相手の大人たちを恐れさせたという。
開国後の日本からの輸出品は、生糸と茶の二つが目玉になった。しかしこれが引き金となって諸物価が騰貴した。正義感の強い栄一はたちまち過激な攘夷論者になった。この理論的指導者が尾高惇忠(おだかあつただ)だ。世界遺産に指定された富岡製糸場の初代工場長。栄一の推薦による。栄一も工場の顧問になっている。
攘夷論者の栄一は高崎城(群馬県)の乗っ取りなどをたくらむが、やがて知己の平岡円四郎や、その主人の一橋慶喜に諭され、“日本の虫”“世界の虫”に成長していく(グローカリズム)。パリで開かれた万国博覧会に、日本使節団の事務長として赴く。王政復古で政府が消滅し送金が絶える。窮した彼にナショナルバンクの頭取が金融の道を教える。栄一の目が開かれ、日本に帰ったらこの面も自分の手で開発しようと志す。
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