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創業者・家康と守成の秀忠、偉いのはどっちだ 立花宗成の改易からの返り咲き人事で考える

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福島県棚倉町から講演を頼まれた。「奥州棚倉藩評定」と銘打った、この日の統一テーマのうち、2代目の藩主だった立花宗茂について語れ、ということだった。2000年に宗茂のことを一冊にまとめているので、話が来たのだろう。

宗茂は慶長8年(1603年)から元和6年(1620年)まで棚倉にいた。もともとは築後柳河(福岡県柳川市)の城主だったが、関ヶ原合戦で家康に敵対したので改易され、城も禄もいっさい失った。家臣も全員失業した。ところが宗茂には徳があったらしく、失業家臣たちがグループを作って、宗茂を養った。この話が2代目の徳川将軍秀忠の耳に入った。秀忠はこういう話が大好きだ。

「近頃珍しい美談である」と言って、宗茂をまず自分のそばに呼んだ。

秀忠は「談判(お話し相手)の会」というのを作って、大名や旗本の中で注目する人物を集めては、その経験談を聞いていた。彼は父家康と比較され、“不肖の2代目”といわれることもあったので、この汚名を払拭すべく、この会を活用していた。

宗茂は棚倉に足かけ18年いたが、秀忠は最初1万石(大名の最小限)を与え、やがて3万石に増封した。そして元和6年には宗茂を旧領の柳河に帰国させた。石高も10万石に戻した。こんな人事異動は徳川幕政史でも希有だ。よほど宗茂の人柄を気に入っていたのだ。棚倉町では今回の行事テーマの副題として“復活の城 赤館城と棚倉城”というのをつけている。棚倉藩主は明治維新まで8家16代を数えているが、宗茂のような例はほかにない。“復活”は宗茂のために用意されたサブテーマだろう。

催しでは8家16代にわたる藩主の家で、現存する子孫を招いて「藩主時代の先祖の事績」について、それぞれ語ってもらった。往時の棚倉は交通の要衝であり、物流の基地でもあった。秀忠の宗茂復権は決して思いつきではなかった。かなり考えた人事だった。しかし宗茂は関ヶ原の合戦では父家康に敵対し、家康側の大津城を落城させた猛将だ。家康が生きている間はさすがに復活させることはできなかった。父の死後、時機を見て柳河に戻したのだ。

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