その性格は狷介孤高、富貴を見ること腐れネズミのごとく、俗士はすべて虫けらと見なす。そのため世俗はこれを嫌い、門に入る者もいない。それでいながら性急で座位を気にする。隠者を装いながら、その実、俗っ気も多分にあった。
“狂蕩(きょうとう)”を晩年の生き方として選び、『胆大小心録』を書いた。かつて『雨月物語』や『春雨物語』で示した抒情性や妖奇性などをかなぐり捨てて、知友や先輩・後輩たちの面皮を剝ぎ、これでもかこれでもか、ときりを突き立てるすさまじい人物評伝だ。“ののしる楽しさ”のためにののしる罵倒文学だ、と後世の識者はいう。いわゆる文豪といわれる存在に悲痛なかみつき方をした。太宰治(『如是我聞』)に似ている。自分で自分の生きる場所を縮めていった。
この作家の名は上田秋成という。江戸時代の文学者だ。同時代に伴蒿蹊(ばんこうけい)という近江八幡(滋賀県)出身の商人作家が『近世畸人(きじん)伝』と題して、各界の奇人の言行を編んだ。ところがいくら待っても秋成には声がかからない。しびれを切らした秋成は、ある日伴のところに出掛けて聞いた。「なぜ俺を入れないのだ」。ジロリと秋成を見返した伴はこう応じた。「おまえは必ずそう言うだろうと思ったから入れないのだ。これからも入れるつもりはない」。
これは“最高の奇人”をもって任じている秋成の全人生を真っ向から否定するものだ。しかし編者が入れないと言っているのに、無理に入れろとは言えない。
やりきれない思いを抱いて秋成は、京都の山中に小庵を構えて住んだ。妻のたまを伴った。たまは秋成の養家の家事手伝い人だった。が、夫の影響を受け文学にも手を染めていた。たまにせがまれて秋成はペンネームを与えた。瑚璉(これ)だ。出典は『論語』で日本では孔子への供物を入れる聖器のことだ。「字は?」と聞くたまに「字なんかどうでもいい。わしがこれ、これと呼ぶのに都合がいいからだ」と答えた。たまはこれを秋成の自分への深い愛情だ、と受け止めて涙ぐんだという。
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