脚力の衰えが激しい。その衰えも斜線状ではなくガクンガクンと階段状に襲ってくる。さすがに心青ざめて狼狽した。最近は朝の散歩も頭の中だけで行い、実行はほとんどしなくなった。その報いが来たのだ。今は夕時だけで、それもその日に訪ねる飲み屋までの距離になってしまった。
いずれにしても脚力の回復に努力しなければならない。勤めを辞めるときに若い仕事仲間が竹の一片を贈ってくれた。踏むためのものだ。ベッドの下に放り込んだままにしておいたのを、急きょ取り出した。ドイツから仕入れたマッサージチェアの背の下に置き、チェアの背につかまって根気よく踏む。テレビを見ながら心の中で踏む回数を数える。300回以上500回止まりとする。
戸外での歩行にも工夫する。つんのめったりつまずいたりするのがしきりだ。(どうしてくれようか)路上で恥をかかせ、憤りの炎を燃え立たせる脚は敵だ。いろいろ考えた。揚げ句に実行し始めたのが、足の先を放り出すように前に出し、かかとから着地するという歩き方だ。
これだとまず尻が前に出て背筋がピンとし、姿勢がよくなる。普通に歩くときのつんのめりやつまずきで起こる前のめりが防げる。屈辱感はこの前のめりによって起こるのだから、精神的にも安らぎが得られた。しかし一歩一歩ホイホイと投げ出すような、投げやりな歩き方をしている後期高齢者の姿を、通行人がどう見ているかは私の意識の外にある。
というのは、今の私には大きな屈託ごとがあるからだ。高齢者の年齢別のありようを提起したのは孔子だ。60歳を耳順(じじゅん)、70歳を従心と告げた。耳順というのはほかからの意見をよく聞く、違う表現をすれば、ほかからの意見を素直に受け止められるように自身の人格が完成している、ということだろう。だからこそその延長線上にある「従心」が可能になるのだ。
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