ロクな財産もないので遺言など書く気はまったくないが、家人に折に触れ告げていることがある。「オレの死後、カネを貸しているので返してほしい、と言う人があったら絶対に応ずるな。これは飲み屋の勘定も同じだ」。
私は若いときからカネの貸し借りはしたことがない。飲み屋でツケを残したこともない。どんなに親しい友人でもカネの貸し借りは避けてきた。往年のフランス映画『我等の仲間』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)が、そのことをテーマにしているが、カネ(さらに女)が絡むと鉄石のような友情も結局は割れ、お互いに身の不始末に至る。だから人にカネを貸すときは「あげたことにする」と思ってきた。
飲み屋についても必ず“その日決済”を守っている。昔からそうだ。なぜこうなったのかは自分でもわからない。ただ「いつ死ぬかわからない」という思いが若い頃からあり、「そのときは1円の借金も残したくない」という、妙な潔癖感があることは確かだ。旅が多いから旅先で思わぬ災禍に出合うこともあるだろう。
そんなときに備えて私は当座の処理費用(赤の他人に頼むので)をいつも内ポケットに入れてある。封筒にそのことを書き、「足りないときは眼鏡の縁、あるいは入れ歯を売って補ってください」と追而(おって)書(がき)を添えてある。眼鏡の縁も入れ歯もそれなりに高価にしているのは、そのためだ。
親しい友人に酒を飲みながらその話をしたら、バカだなと笑われた。「眼鏡の縁はともかく、入れ歯はそんな役には立たない」と否定された。
ところで現在の私が毎日の暮らしで大切にしている小さな紙片がある。ATM(現金自動出入機)の利用明細票だ。銀行の自動販売機みたいな機械から出てくる、残高記載のあの紙片である。なぜ見てすぐ収容箱に捨ててしまわないのかといえば、この紙片が実は私への“生き方”のフィードバック装置になっているからだ。
この記事は有料会員限定です
残り 650文字
