ある大学で戦後70年の話を聴いた後の懇親会。昭和史の話題となり、半藤一利氏の『昭和史』を一部引用して私見を述べると、若い教師が「半藤さんは見方が歪んでいる」と言う。
筆者は半藤氏の著作をほとんど読んでいたので、どこが歪んでいると思うのかを尋ねると、その教師は「読んだことはないが、信頼する人がそう言っていたので」と言うではないか。これには、空いた口がふさがらなかった。
思い出したのが本郷和人東大教授の「誰も古典を知らない」(文藝春秋4月号)だ。「右でもなければ左でもない」教授は「右より」の論調の深刻な問題点として、論理の短絡化とともに伝統軽視を挙げる。
「日本は優秀だ、と声を大にする人の多くは『伝統を大切にしよう』ともいう。まったく賛成である。ただ、彼らのいう伝統は、多くの場合、明治より前には遡ることがない。歴史を尊重しないのだ」
伝統の体得には古典を読むことが有効だが、実際に読む人は少ない。教授は続ける。「愛国をいうなら、北畠親房の『神皇正統記』や本居宣長の著作はどうか。そうしたものに触れもせずに伝統を語るのは、説得力がないのではないか」。その通りだと思う。
歴史を直視した独仏
戦後70年の今年は、歴史認識を巡って甲論乙駁に明け暮れた年でもあった。ただし、どのようなテーマであれ、議論を深めるには、お互いに十分勉強し、ベースとなるデータ(事実や数値など)を相互に検証して、そのうえに丁寧に論理を積み重ねていく以外に方法はない。昨今の日本の風潮を見るにつけ、そうした当たり前の作業が、国会であれ、大学であれ、マスメディアであれ疎かにされているような気がしてならない。
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