Access Ranking
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カズレーザー
メイプル超合金 成功の理由は大半が運、
だけど売れるために最低限必要な要素はある -
加地信之
吉本興業カンパニー 株式会社よしもとクリエイティブ・エージェンシー
マネジメントセンター 東京マネジメントセクション 「自分がどこに行きたいのか」を考えることが
正しい決断につながる -
坊垣佳奈
株式会社サイバーエージェント・クラウドファンディング取締役 海外の事例を日本流にアレンジしつつ
客観視を通じて「決断力」を高める -
小林寛之
株式会社トリドールホールディングス 執行役員 経営企画室長 兼
TDインベストメント株式会社 代表取締役社長 仮説と検証で「決断」を早め、
グローバルな世界を戦い抜く - 初のBEV失敗を糧に、7~9月期の業績が大幅改善 中国新興EV「理想汽車」、失速克服に確かな手応え
グローバル社会は今、確実に私たちの眼前にまで近づいてきている。ビジネスや文化芸術は言うまでもなく、揺れ動く国際情勢からも、もはや私たちは無縁ではない。情報技術の進化によって、あらゆる情報が一瞬にして世界を駆け巡り、そのつど判断や決断を迫られることはすでに当たり前の景色となっている。多様性を意味するダイバーシティが浸透していく中で、私たちはこれまで以上に、学習や経験を積み重ね、グローバル社会を生きていくための思考力、価値観を身に付けなければならない。
そんな新しい世界にいち早くチャレンジし、今必死に戦っている人たちにとって、必須の能力となっているのがスピード感のある決断力だ。では、どうやって彼らは「グローバル社会で求められる決断力」を身に付けることができたのか。日々世界を目指し、格闘する彼らの姿を見つめながら、そのヒントを探る。
メディア関係の仕事を志し
同志社大学に興味をもつ
――同志社大学を選んだ理由を教えてください。
山内 高校時代からメディアやエンターテインメント関係の仕事をしたいと思っていました。そこで、この分野に進んでいる人たちが多い大学を調べていくうちに、自由度が高く、柔軟な人材を輩出している同志社大学に興味を持ちました。また関西では「多様な方面で活躍される先輩方を輩出している同志社」だという感覚や、将来の人生を考えるうえで選択肢が多くなるというイメージもあり、同志社大学経済学部に進むことになりました。
――大学在学中には、どのような学びや活動をされていましたか。また、人との出会いなど印象に残っているエピソードはありますか。
山内 入学後、すぐに朝日放送のラジオ局でアルバイトを始めました。月~土曜日の夜10時から深夜1時までの番組を担当しましたが、現場には学生ADたちがたくさんいました。まとめて“AD‘S(エーディーズ)”と呼ばれ、まるで大学のサークルのようだったこともあり、そこに自分の居場所を見つけました。仕事に夢を見いだしつつ、お給料がもらえたので(笑)。稼いだお金は旅行や音楽に費やしていましたね。
大学では、第二外国語でスペイン語を選択しており、2回生のときに短期留学でアメリカの大学に留学しました。ニューオーリンズでしたが、スペイン語が通じる人が多かったのです。今大学時代を振り返ると、自由な時間がたくさんあった在学中にもっと語学を勉強したり、読み物を読んだりして自分の蓄えを持っておけばよかったと思ったりしますね。
何でもチャレンジして
自分の引き出しを一杯にする
――大学卒業後の進路はどのように思い描かれていましたか。また、どのような経緯でアミューズに入社されたのでしょうか。
山内 学生時代にエンターテインメント系の仕事をしていたこともあり、そういった仕事を続けていきたいと思っていました。大阪、東京と就職活動をする中で、アミューズを知ったのですが、当時参加した会社説明会が、当時の私にとって、夢にあふれているというか、人に楽しんでいただくということみたいな要素がぎゅっと凝縮されていまして、こんな場所で自分も働いてみたいと思ったんです。場所は渋谷公会堂。著名なアーティストや社員の方々が作る会社説明会が、まるで一つのショーのようでした。入社を希望したのも、「入りたかった会社」というよりも、「面白い会社だな」「どんな会社なんだろう」という興味や好奇心のほうが強かったですね。当時一般的に有名だったかどうかはわかりませんが、働いている人たちが生き生きしている会社だという印象を強く持ちました。これなら学生時代に経験したこと、自分の好きなことを、いずれかプロフェッショナルとして自分も昇華できるのではないかと思ったのです。
――アミューズ入社後、どのような仕事をされ、どのような苦労がありましたか。
山内 入社してすぐに、新人アーティストの担当をすることになりました。私も新人ですから、「若いスタッフの感性でトライしてみろ」ということもあったのかと思うのですが、とにかくがむしゃらにアーティストが階段を上がっていくことを夢見ての日々が始まりました。当時、自分にも引き出しが少なかったし、正直、なかなか自分が思うようにプロジェクトを動かすこともできませんでした。背負うものも大きい中、最初にある意味チャンスをもらった半面、右往左往、大変な時期を過ごしました。
一方、TVや映画、ライブなどの仕事をしていく中で、日本のエンターテインメントの第一線には、それぞれの分野にプロフェッショナルがいて、皆が志をもって仕事をされている。そう感じることがたくさんあり、本当に勉強になった時期でした。
――仕事における成功や失敗、挫折などの具体的なエピソードがあれば、お教えください。
山内 新人アーティストを担当したあと、今度はベテラン俳優のマネージャーになりました。その方はTV番組でMCの仕事も多く、私もマネージャーとして番組の制作会議や収録に参加することになりました。長年番組をつくってきた演出家や構成作家、プロデューサーといった百戦錬磨の方々と一緒に仕事ができたことは、自身にとって大きな財産になったと思っています。TVの仕事のほかにも舞台の仕事などもあり、テレビ番組をつくること以外にも、エンターテインメントを創作すること、演劇や笑いがいかにつくられていくのかという現場を、身をもって体験しました。
たとえば、舞台の現場では、マネージャーとして仕事をする中で、どうすればもっと舞台が面白くなるのか、笑いが生まれるのか、ということが少しずつ体に入ってきたのかもしれません。その時期は、エンターテインメントと言われる仕事に幅広く携わることになりました。その結果、いろんな人からいろんなことをある意味“盗む”ことができたんだと思います。
何も引き出しのなかった新人だった私が、そのアーティストマネージメントの6年間で、アーティストやスタッフの方々と仕事をする中で学び、自分の引き出しの中にかなりどっさりと荷物が入った感覚があります。広い角度からエンターテインメントを学べたことは大きかったです。
――その後、どのような仕事をされたのですか。
山内 アーティストマネージメントの仕事は、アーティストの才能はもちろん、いろんな分野の専門家達と一体となって、毎日一緒に仕事に向き合います。それが毎週繰り返されていくわけで、アーティストという柱が真ん中にあって、マネージメントがあり、さらにたくさんのスタッフが集まってくれて日々の仕事に向き合う中で、仲間たちができます。でも、担当が変わると、その環境、参加する人が変わって、ある種の新しい世界がまた始まるわけです。
「いろんな経験を積んでみろ」。そんな上司の進言もあり次は音楽アーティストの仕事に携わることになりました。その中で学んだこともやはり、エンターテインメントとは何か、そして“ライブをつくる”ということです。一番大事なことは、お客様が楽しみにしているアーティストのパフォーマンスを喜んでいただける環境をつくること。
たとえば、規模の大きなライブでは、とてつもなく多くのスタッフが参加することになります。ライブは、お客様にいかに喜んでいただくかがもちろん一番ですが、その裏でライブをつくることの楽しさ、同時にそれがいかに大変かということを経験させていただきました。
こうして経験を積んでいく中で、私自身にとっては、失敗や挫折というよりは、日々プラスしかありませんでした。尊敬できるアーティスト、まわりのスタッフは日本で一流と言われる方々が勢ぞろいしています。右を向いても左を向いても、皆、百戦錬磨の人たちばかり。リードをするべき自分が、自分のつたなさを感じながら、日々吸収していく毎日でした。むろん仕事量は多かったのですが、それ以上に刺激、そして夢がありました。
エンターテインメントは国境を
越えられる!
――現在の海外の仕事につかれた経緯とは?
山内 会社が海外事業を拡げていくという方針の中で、視察を重ねるうちに、お隣の国でもある、中国に進出したいと思うようになりました。当時、中国全土はもとより、一番文化に対して開放的である上海でもまだまだ日本のエンターテインメントとの交流は少ないという感触を得たからです。その頃、会社としても事業拡大の活路の一つとして中国への進出を考えていたという背景もあり、上海に会社をつくることになりました。
当時、上海は世界で日本人が最も数多く住んでいる街の一つで10万人以上いたと言われていました。過去をたどれば、アミューズはサザンオールスターズが北京でライブを行ったり、上海電視台とドラマをつくったりといった形で、日本国内でもいち早く中国をはじめ、海外との交流が行われていました。
ですが、私にめぐって来たタイミングは、どこも一緒かもしれませんが、初めは1人で机も椅子も借りるところから始まる…みたいな状態からの開始で…。知り合いのつてを頼りながら、試行錯誤しつつ、人材派遣会社から通訳も紹介してもらう…。ほぼゼロからスタートでした。自分の会社を作っていくみたいな楽しさもありました。34歳のころです。
苦労したのは、それまで多くのスタッフたちと一緒にチームとして闘っていたのが、信頼できるパートナーはいたものの、最初は、ある種1人で闘わなければならなくなったことでした。もうそのころには日本企業なんて山ほどありましたが、勝手に、先駆者はこういうものだとか…言い聞かせながら…。上海にはたくさんの日本企業があるのですが、赴任当初は、せっかくの海外で日本人だけで集まって、現地の日本人だけとビジネスをする、みたいなことはしたくないという変な力みがありました。今思えば、それもとても大切なのですが。もとより「中国人とこれだけ仕事ができるんだ、と言える人物になりたい」という理想像がありました。そのため、日本人ではなく、中国人とどう組めば、これまでなかった新しい文化交流や、ライブ、映像などの作品を中国で産み出せるかをテーマに仕事を考えていました。
――実際に仕事ではどのような経験をされましたか。
山内 最近は、大規模なアリーナクラス、ライブハウスも合わせると年に10本以上の日本や中国のアーティストの方々のライブを上海で行わせていただいたり、年に1作品はドラマの企画・制作に携わったりしています。あとは、エンターテインメントと理由付けできることはなんでもやっています。中国に行った当初でいうと、2012年に弊社の福山雅治が『上海国際テレビ祭・映画祭』という大きなイベントに招待していただきました。中国では90年代は日本のドラマがよく観られており、彼の日本での活動を、中国でも知っていて興味をもってくださっているメディアの方々から熱心に誘っていただいての参加でしたが、大変な盛り上がりとなりました。このイベントは、アミューズにとっても、福山雅治にとっても、中国と向き合っていくということを、中国の方々にも身を以て感じていただけるきっかけになったと感じています。
そんな出だしのいいスタートを切ったと思った矢先、2012年の尖閣諸島をめぐる問題がありました。テレビ放映、ライブなど文化面の仕事もやりにくい状態になりました。当時の私には政治的な側面の交流の余波で、こんなことが起こるんだという驚きはありました。海外で仕事をすることも初めてでしたし、お恥ずかしながら国と国との間に自分たちが挟まれるなんて考えてもいなかった時期でした。
中国で長く仕事をしている人にとっては、初めてではない出来事で…。でも、自分としてはかかわった番組が放映されないのは悲しい出来事ではありました。なにより自分が依頼して来てもらった人たちが作った作品が、世の中の人たちの目に映らないまま消えていくことになるということは本当に苦い思い出ですね。政治と文化は別とも言えますが、今は、両方があってのことなのでと思いますね。
中国のテレビ局スタッフも
涙ながらに「残念でならない」
――当時どのようなことが起こったのですか。
山内 当時、テレビ番組が放映できなくなったとき、中国のテレビ局スタッフが涙ながらに、「残念でならない」と言ってくれたのです。何かをつくりあげていくという熱意は、どの国も変わらないなと嬉しく思いました。くやしい思いをした中国のテレビ局の人たちとは、また良い番組をつくろうと話し合い、後には、一緒に仕事をする機会が多くなりました。国レベルの大きな仕組みの中で阻まれることもありますが、民間同士のハートは同じというか、当時のつらい体験は、今の自分の強さの礎となりました。
――中国ではどのように環境に慣れていったのでしょうか。
山内 日本とは違った形で、メディアやコンサートなどのルールがあります。海外なので当たり前ですが、日本と比べると、放送に関しても、イベントに関してもルールが割と変わる。中国人の彼らは慣れていて臨機応変という感じでした。でも、当時の私は「うーん、しょうがない」と飲み込むことが多かったですかね。今は私も、免疫が付いてきてる気もしますが、当時は自分から中国に慣れるというよりも、日本人としての意識が強すぎて、中国人と仕事をしても、溶け込むのではなく、日本人を前面に出して仕事をしていた感じでした。
会社をつくったときも現地スタッフがたくさん辞めました。エンターテインメントへの思いは一緒でも日本と中国のやり方は違う。生活習慣から自尊心の持ち方までぜんぜん違うので、スタッフの管理も違うんだなとは感じました。たとえば、中国から見ると日本人は、よく言えば繊細、言い換えれば細かすぎるのです。私なんて日本のアーティストと仕事をする中で、まさに細かさの固まりだったわけです。1ミリの違いも許してはいけない仕事をしていたと言ったらいいんでしょうか。10項目のチェックポイントがあったとしたら、その一つでもスタッフが忘れると、すべてを忘れているといった勢いで怒ってしまう。でも、中国は10項目あれば、3つ4つ忘れても仕方ない、気づいたら対応しよう的なおおらかな風土です。しかも、通訳を使っているうえ、日本人の言葉は抽象的なので、どれだけ伝わっているかもわからない状態で、自分の力の足りなさを実感しました。
「港」としての役割
日中の架け橋となりたい
――どのように中国人スタッフとの関係を改善したのでしょうか。
山内 たとえば当初は、スタッフの誰かが失敗すると、場所も周りもかまわず、怒ったりしていました。よく本に書いてあることなのですが、まさにその通り!中国はみんなの前で、個人を責めてしまうと、その人の立場がなくなってしまうみたいなところが多分にありますね。だから、私と仕事をすることがイヤになって辞めていく。その結果、人がいなくなる。結局一番困るのは私自身です。
私は大きな勘違いをしていたのです。日系企業ですから、日本人が中国人を雇っているという上下関係に見えますが、中国という社会では、私のほうが下であるわけです。中国に関して私は何も知らないし、現地で仕事をするアイデアだって彼らのほうがあるわけです。
にもかかわらず、日本での経験をもとに頭ごなしに怒ってしまう。自分に対する批判もたくさん聞こえてきました。これでは続けられない。やり方を変えなければならないと思いました。私が一人で頑張るというよりも、周りが動いて機能する組織を早くつくらないとダメだと気づくようになりました。さまざまなセクションがかみ合って組織として動いて初めて会社はいいかたちで動いていきます。最初は日本語がわかる人や日本に興味ある人を優先的に集めたため、その道のプロも少なかった。今は、それぞれがセクションごとに責任をもって仕事をしつつ、いかにチームとして結束を高めていくかに注力しています。
――「グローバルで求められる決断」について、とくに中国で新しい仕事をする、または自らがアジア地域に向けて出て行くには、どのような心構えや考え方が必要でしょうか。
山内 中国での私の役割の一つは、中国で日本人や日本のコンテンツを出迎える日本人、いわば「港の人」のような仕事をしているわけです。私の仕事は「港の管理」なのです。出迎える人はアーティストから映画監督までさまざま。しかも私の上海での仕事は、必ずしもアミューズ関連だけではありません。日本のエンターテインメントにかかわる人であれば、「何でも港として受け入れます。よろしければ、会社もあるので、良しなに使ってください」という立場です。もちろん、好きなものでないと応援できなかったりするのですが、海外でトライしたいというお話を頂いた時点で、その気持ちだけで好きになっていたりします(笑)。アミューズではないから応援しませんということはありません。実際、今も全体で見たらアミューズとは関係のない仕事のほうが多いくらいです。
あくまで「日本人の方が何かのきっかけを上海でトライをしてみたいみたいなことがあれば、そのお手伝いをご一緒させてください!」みたいなスタンスです。「港にいる人間」そして港にいるからこそ、偏ってはいけないのです。
そして港にいながら、中国と日本の良い行司役になろうとも思っています。それはアーティストとファンの架け橋となることでもあります。その結果、アーティストや日本からお迎えした方に「日本と同じように楽しいライブができた」と言われることが一番うれしいですね。それが、海外の人に日本の良さを知ってもらえる瞬間でもありますから。
今、アジアに進出する人たちがたくさんいますが、私は、現地に対応できる柔軟な日本人としてだけでなく、そこに至るまでの架け橋として、プロデューサー的な役割を果たしていきたい。いわば、道先案内人のようなものです。日本まで迎えに行ってもいいですし、港で待っていてもいいです。到着後、その後の走る道までつくっていたいのです。
「アジアに行くのなら、
アミューズの山内に相談してみよう」
――大学時代に経験したことで、現在、役に立っていることはありますか。
山内 今振り返ると、自由な時間をもっと有効に使えばよかったと思います。もっと身に付けるべきものがあったかもしれないからです。しかし、そう思う反面、学生時代に好き放題やっていたからこそ、今もこういった仕事ができていると思います。経験したいろんなことが今役に立っていると感じます。
――将来の目標をお教えください。また、もし具体的なキャリアプランがありましたら、そちらもお聞かせください。
山内 つらい時期に駐在を開始したこともあり、最近はすごく中国の方々と仕事がしやすくなってきています。日本、日本文化の好きな人たちも多いですし。コンサートやドラマ制作などいくつかの方向では、一歩ずつではありますが基盤を築きつつあると思っています。その意味で、中長期の目標として日本のエンターテインメントがもっと垣根なく、世界に出ていけるための架け橋となりたいですね。その中で、「アジアに行くのなら、アミューズに」みたいなことだったり、「山内に相談してみよう」みたいなことを目指せたらとも思います。その反面、中国の方からも日本に行くなら、日本のことならアミューズだ、山内だ!みたいなことも今以上に固めていきたいですね。自分の世代での交流はまだまだ拡大していける世代だと思っていますので!