「洗足田園都市」では、3つの条件と6つの建設原則により、環境保全が考えられていた。「建設原則」には、「建物は3階以下とすること」「建物敷地は宅地の5割以内とすること」などの項目が含まれている。また駅付近に「洋風建築地域」という区域を設け、区域内では洋風建築以外の建設を禁じた。
駅を中心に商業地域と住宅地域に分けられ、中央に大通りを設けて街路樹が植えられた。この通りが冒頭で紹介した「いちょう通り」で、現在も住民に親しまれている。
「洗足田園都市」の入居者は会社員、会社重役、官吏などの新中間層が多かった。また入居者の前居住地の調査から、東京市街地に住む人たちが移住してきたことが明らかになっている。
洗足に建てられた住宅は、「洋風の客間、書斎、台所を備え、新しい時代の中流の家庭生活を象徴するものであった」という。(『世代交代からみた21世紀の郊外住宅地問題の研究』1985.12)
洗足は田園都市株式会社による郊外住宅地の先駆けなのだ。
戦後のゆるやかな変化
洗足は、戦前にはすでに大邸宅の並ぶ高級住宅地となっていた。その多くは戦災で焼失したが、徐々に復興していく。
だが戦争と、その後の相続や売買にともなって土地が細分化されていった。1955(昭和30)年ごろは駅周辺の商業地域で分割が目立ち、1972(昭和47)年ごろを境に不動産投機的な小規模建売住宅が急増し、1985(昭和60)年になると住宅地域を含めたほぼ全域で分割された。
また、1972(昭和47)年には東急ストアが開業するなど、洗足はゆるやかな変化を遂げている。
しかし市街地再開発事業が行われることはなく、タワマンや超高層ビルのない良好な住環境を保っている。田園調布よりも先に生まれた元祖田園都市は、戦後に少しずつ姿を変えながらも、大正期に整えられた街の基盤をいまに残している。
駅前の再開発が次々と進む東京で、なぜ洗足は大きく変わらなかったのか。後編では、その理由を探っていく。


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