身近な場面に置き換えるとわかりやすい。店で注文を間違えられたとき、店員が「申し訳ございません」と口にしながら、目は手元の伝票に落ちたままだったらどうだろう。言葉は正しいのに、なぜか腹が立つ。多くの人に覚えがあるはずだ。
人は謝罪を、耳で聞く前に目で採点している。では、簗氏の謝罪は目にどう映ったのか。
日本の謝罪の「型」はきちんと守られていた
テレビニュースで報じられた5日の囲み取材の映像を見ると、ある対比に気づく。
冒頭、謝罪の言葉を述べる間、簗氏の視線はほぼ手元の紙に落ちたままだ。顔が上がるのは、文の区切りのごく一部にとどまる。言い終えると、頭頂部が見えるほど深く頭を下げた。お辞儀の形としては丁寧である。深いお辞儀は、日本の謝罪の「型」だ。型はきちんと守られていた。
ところが、記者との質疑に移ると様子が変わる。簗氏は記者のほうへ顔を向け、口を結んで質問を聞き、顔を上げたまま答える場面が多い。
つまり、いちばん伝えるべき謝罪の言葉の場面では顔が見えない。謝罪の核心で、顔が受け手から遠ざかっているのだ。前述の記者の一言は、多くの人が映像から受け取った違和感を、そのまま言葉にしたものだろう。
農林水産省の会見記録よると、記者はこのとき、紙を見ずに自分の思いで語るよう求めた。簗氏は、党員の集まりでの発言だったこと、党の決まりをめぐる不満から誇張して言ってしまったことを説明し、「不徳の致すところ」として反省を述べている。
言葉の上では、ここでも反省は語られていた。それでも「顔が紙に向けられていた」印象が強く残ったのは、型が整っていればいるほど、型の外にある顔の向きが目立ってしまうからではないか。これも筆者の見立てである。


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