七十の半ばすぎから無関心を装っていた郷里へ、度々往来するようになった。
むかし私が「山口県人って嫌いです」と言った、と言う人がいる。それを聞いても信じられない。忘れたのだろう、と言われても信じられない。いまから思うと郷里と物理的な距離があったこともあるが、心情的にはつねに不即不離であった。〔中略〕
昨年の暮れにぎっくり腰をした。いまはまだ不自由で行けないが、なおったら岩国に行きたいと、いまから愉しみにしている。〔後略〕
これは父の遺産か
私の父は私が十六歳になった年の早春、五十七歳で亡(なくな)った。
この父が死んでからのちのことであるが、父はその生前、どう言う生活を送っていたか、私はそのことにとても興味があったが、父の生活は、人の噂話として囁(ささや)かれることのほかは、何一つ分かってはいなかった。どう言う訳か、私は母にも聞くことはなかった。〔中略〕
私はうちの仏壇の下の、押し入れのようになっているところに、古い雑誌や、古い手紙の束などが、整理をしないままで、雑然と入れてあるのを、前から知っていた。或るとき、それらのものを、何の順序もなく、手当たり次第に引っ張り出して見ると、「都の花」と言う古い頃の雑誌が五、六冊と、何とか刑法と書いた法律書などがあった。
父の読んだ本が法律書であるのは、いかにもありそうなことであったが、「都の花」と言う、小説や随筆その他をのせた当時の文学雑誌があるのは、思いもかけないことであった。それにしても、この父が、何の本であれ、本と言うものを読んでいる姿を、私は思い浮かべることが出来なかった。
父はいつも、時計の間と呼ばれていた父のその居間から、ほかの部屋へ行ったりすることはなかった。それらの本を読むために、父が、居間からそこまで行ったと思われる姿を、私は思い浮かべることは出来なかった。
それにしても、あの父が本を読み、而(しか)も文学書を読んだらしい、と言う確かな証拠を見たと言うのは、おかしいことであるが、私にとっては、とても愉(たの)しい発見であった。やはり父は、この私の父であった。この私と言う、小説を書いたりしている女の父であった。
そして、いま、この私が、小説を書いたりしているのは、これは父の遺産か、と思ったりしているのは、いや、これこそ父の遺産でなくて何であろう、と思ったりしているとは、何と愉快なことではないか。



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