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キャリア・教育

朝ドラ《ブラッサム》でも話題になった"青鞜"…創刊した「平塚らいてう」の女性たちの背中を押す生き方

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ブラッサム 平塚らいてう
明治時代の服装を着た女性たち(写真: mthrmyt / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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二人は無事に保護されたものの、草平は東京帝国大学英文科を卒業し、一方の明は日本女子大学校を卒業していたため、エリート男女の心中未遂として、世間に騒ぎ立てられた。この「塩原事件」によって、明の人生はこれ以後、一変することになる。

事件から3年が経った明治44(1911)年、結婚も就職もままならないなか、明は25歳になった。座禅と図書館に通う日々を送っていたある日、明のもとへひょんな話が持ちかけられる。閨秀文学会の主催者である生田長江から、こう誘われたのである。

「女性だけが作る文芸雑誌を創刊してみてはどうだろうか」

男性ばかりが幅を利かせている文壇を変えたいという強い思いが、生田にはあったのだろう。また生田は、いまだに定職に就かない明のことを気にかけてもいた。

しかし、明にはもはや文学で身を立てようという考えはなく、せっかくの提案にも、どこか乗り切れない気持ちでいた。それでも、あまりに生田が熱心に勧めるので、姉の友人である保持研子(やすもち よしこ)に相談したところ、大いに乗り気になり、一緒に雑誌作りに挑戦することとなった。

有名な一文が誕生する

雑誌の規約を作り、二人は生田のもとを訪ねた。そのとき、生田から提案された雑誌名が「ブルー・ストッキング」。イギリスで知的な女性のことをからかうときに使われた言葉だが、それをあえて自分からそう言ってしまおうというのが、生田の意図であった。話し合いの結果、それを日本語に訳して『青鞜』という雑誌名にすることで決定した。

3カ月後の9月創刊を目指して、どんな表紙にして、どんな内容にするのかを連日話し合い、一つずつ決めていく。巻頭詩は、歌人の与謝野晶子に書いてもらえることになった。

そんな作業に追われているうちに、明は、いつのまにか雑誌作りに夢中になっている自分に気づいたのだった。

雑誌の創刊の日が近づくと、編集作業もいよいよ大詰めを迎えていた。しかも、記事作りだけではなく、広告や販売の仕事まで自分たちでやらなければならない。

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