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「日本スゴイ」に歓喜する「ほめられたい日本の私」の切実な裏側 無言社会が生む「ほめられ飢餓」と幸福度の伸びしろ

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ほめられる 科学と資本主義の未来──〈せめぎ合いの時代〉を超えて
日本人は「ほめられること」に飢えているのか?(写真:Graphs /PIXTA)
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そうした中、近年のように「インバウンド」の外国人が増えると、彼らは(少なくとも最初の反応としては)日本あるいは日本人のことを「ほめる」、あるいは良い面を見つけてそれを言葉にして話すだろう。

そこに「ほめられたい日本人」が“飛びついている”、あるいはそうしたコンテンツに殺到しているのではないか。

上述のように、私はそれが一概に望ましくないとは考えていない。

が、一歩進めて、あるいは逆転の発想と言うべきか、日本社会においても、日本人の間でもっと(言葉で明示的に)他者を「ほめる」ようにしていけば、日本人の幸福度はもっと上がるのではないか。これが1点目であり、後ほどさらに深掘りしていきたい。

身内には過剰で他人には無言の社会

もう1点は「無言社会」ということである。後の議論でくわしく述べるのでここではひとまず指摘にとどめるが、それは一言で言えば、「日本の都市においては、見知らぬ者同士がちょっとしたことで言葉を交わしたり、コミュニケーションをとったりすることが際立って少ない」ということだ。

関連して、見知らぬ者同士が互いに道を譲り合ったり、「ありがとう」と言ったりすることがきわめて少ないといった点も含まれる。

ここでのポイントは「見知らぬ者」という点にある。つまり日本の場合、「知っている者」同士の間では、逆に過剰なほどに気を使ったり、集団の同調性が強く求められたりする傾向が強い。その“落差”――集団の「ウチ」と「ソト」、あるいは「身内」と「他人」の区別――が極端に大きいことが特徴的なのだ。

先日も山手線のある駅の改札の外で、中高年の男性と女性がすれ違いざまにかなりの強さで肩をぶつけ合う場面を目撃したが、互いに不愉快そうな顔をしながら、そのまま何も言わないで立ち去っていった。

こうした情景は、ある意味で全く「とるに足りない、ささいなこと」と受け取る向きもあるかもしれない。が、以上のようなことが“当然のこと”になっていること自体、ある意味で社会のありようとしていささか異常なことではないか。

そう思う理由の一つとして、やはり海外との対比で、日本以外の地域では(国による温度差はあるが)都市の中で見知らぬ者同士が言葉を交わしたり、コミュニケーションをとったりすることがはるかに多いという点が挙げられる。

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