だが、『T乾』とVIVANTは大きな違いがある。VIVANTの考察が「予期されたもの」であるのに対して、『T乾』のそれは、「自然発生的なもの」であると感じるのだ。もちろん考察をアシストするような“違和感”は作品に盛り込まれているのだが、挑戦状まで露骨なものではない。
また、『T乾』では、“違和感”を覚える「伏線だと思われるもの」が、すべて回収されるとは限らない。たとえば、フィナンシェとマドレーヌの“好き嫌い”などは、最終回までに明確な描写がなかったことから、SNS上でも「あれはなんだったのか」という指摘が相次いでいる。
ここでふと感じたのが、視聴者が勝手に「ここは伏線であり、いつか回収される」と思い込んでいる可能性だ。このドラマでは、洗濯乾燥機のフィルターが、夫婦の心や生活を表す大きな役割を果たしていた。「好きな人フィルター」との表現で、恋愛に飛び込む姿勢を手入れする重要性についても説かれている。
これと同様に「考察と伏線回収ありき」の鑑賞姿勢もまた、フィルターと化しているのではないだろうか。あらゆるシーンやセリフには意味があり、それが解かれて初めて、作品を全力で楽しめる——。この姿勢はフィルタリングそのものだ。
「空白を空白のまま描く」という手法
ということは、このドラマは「視聴者のフィルターも定期点検する必要がある」と説いていたのではないか。つまり、物語に“意味”を見いだそうと色眼鏡をかけていた視聴者を、分かっていて置き去りにした可能性があるということだ。
昨今の考察ブームに対して、あえて「答えを出さない」選択肢を示す。そこには、ストーリー上に意味があるようにも、単なる細かな描写にも読める空白が残される。
そこを埋めようとするか、はたまた余韻として受け入れるかーー。
近年の視聴者には、前者が多いと考えられる。「いつかTシャツは乾く」と考えるのと同様に、「最終回までに全ての空白が埋まる」と信じていた。だからこそ視聴者は、自分の解釈をはめ込み、理想的な完成図を共有し合っていたのだろう。
しかしながら「空白を空白のまま描く」というのもまた、ひとつの手法だと言える。この作品においては、「ラストシーンの“来客”は誰か」「干していた大きめのTシャツは誰のものか」といったところまで、描ききらないことで首尾一貫していた。まさにフィルターをかけない、ストレートな表現である。
一方で、あらゆるシーンに意味を見いだそうとする人には、それが物足りなく感じさせた。「あれだけ大風呂敷を広げたのに、中途半端にしか語られなかった」「ぶん投げた」といったネガティブな感想を覚え、やり場のない思いを募らせている。


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